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出羽三山
【でわさんざん】


磐梯朝日(ばんだいあさひ)国立公園の北部に位置し古来より知られる修験の聖地。標高1,980mの月山を最高峰とし,その南西の湯殿山(1,504m),山地北西部に離れた羽黒山(419m)の三山の総称。その山域は東田川郡羽黒町をはじめ同朝日村・立川町・櫛引(くしびき)町,西村山郡西川町,最上郡大蔵村の6町村に及ぶ。三山はもとは別個の「山の神」であったが,羽黒の行者たちがこれらを開いて験所とし,熊野三山に擬して出羽三山の信仰をつくり上げたと思われる。羽黒山の所伝によると,古くは羽黒山・月山・葉山を三山と称し,湯殿山を総奥之院と称していた。そして羽黒山の本地観音,月山の本地阿弥陀,葉山の本地薬師を本尊と仰いで過去(観音)・現在(薬師)・未来(弥陀)の三世にあてる。三山で修行することによって三世の関を越え,三山の総奥之院であり大日如来の浄土である湯殿山に駈入り,即身成仏の果を得るのが羽黒修験の面目であったというが,室町末期に葉山が脱落し,羽黒山・月山・湯殿山を出羽三山と称するようになった。その正確な時期と原因は明らかではない。三山登山が始まった時期は明らかではないが,平安期かららしく,一般民衆が道者となって三山参りをするようになるのは室町期以後のことで,全盛期は江戸期に入ってからと思われる。享保18年は湯殿山の縁年にあたったので,全国の参詣者が多く,三山道者の合計15万7,000人に達し,谷地(西村山郡河北(かほく)町)の大町念仏講帳には,登り口である白岩山内の六十里越街道沿いの村々は「十年間位寝て食えるほどの収入があった」とある。おん行様とも呼ばれる道者は白い衣を身につけ,各地の社寺や名所を巡りながら「お山」を目差した。出羽三山への登り口は,江戸期になってからは7口に分かれ,それぞれの口に寺がありそれらの寺には塔頭・衆徒・門前・家来などがあって,行者の宿泊・祈願・先達などの仕事をしていた。庄内平野から羽黒山に登る手向(とうげ)口(羽黒町)には宝前院(天台宗)があり,その塔頭33院のほか336坊があったという。湯殿山と月山に向かうには大網(おおあみ)・七五三掛(しめかけ)(朝日村)の両口があった。大網口には大日坊(真言宗)があり,塔頭11院それに若干の門前・家来の如き衆徒があった。七五三掛口には注連寺(真言宗)があった。大網は六十里越街道に沿い,七五三掛はそれより2kmほど離れて脇道に位置し,途中で一緒になっているが,もとは別々の街道の登り口であったらしい。最上川支流の銅山川(烏川)から肘折(大蔵村)を経て月山に登る最上地方からの登り口には,肘折に阿吽院(天台宗)があって,ここに3坊があった。村山地方からは月山に登る岩根沢口(西川町)と,湯殿山に登る大井沢口・本道寺口(西川町)の両口があった。岩根沢口には日月寺(天台宗)があり,塔頭4院・衆徒26坊があった。大井沢口には大日寺(真言宗)があり,塔頭6院・家来6戸・衆徒31坊があった。また本道寺口の本道寺(真言宗)には塔頭7院,門前家来14戸があった。羽黒山伏の宗教活動の勢力範囲を「霞」とか「檀那場」といっていたが,江戸期でさえも関八州・信越以北にあまねく及んでいた。まして中世には盛んなるものがあり,「羽黒山中興覚書」には「当山往古荘内三郡社領にて,衆徒所々方々に居住,清僧修験社人禰宜神子等都合七千余坊あり」と記されており,「奥州羽州に於ては羽黒の敷地にて御座候」(旧吹浦家進藤文書)とまで豪語していた。「旧羽黒山在庁年代記」は衆徒8,008坊ありとし,大宝寺(のちの鶴岡)にも3,500坊あり,ここは「羽黒山表口」であるとしていた。本県の中央部に位置する出羽三山は村山・置賜(おきたま)・最上・庄内のいずれの方面からでも入山することができるが,三山参拝の道者(行人)はすべて湯殿山を最終の目的地とする。夏場は四方から入山する者が7口に殺到し,平年3万人,丑年は10万人を超えた。出羽に入国する道者は道筋の村々や鶴ケ岡・山形などの城下の潤いとなったので取り締まりも緩やかで,手形を改めるほかは,領内通行にも特別の配慮が施された。遠国の者はそれぞれの経路があって,各地を巡りながら湯殿山を目差した。大井沢口は主に置賜の者と二井宿・檜原・板谷の3峠で入国した者で,亀岡文殊堂などに参詣した後,黒鴨(西置賜郡白鷹(しらたか)町)から朝日岳の東麓に取りつき見附・中村と縦走して大井沢村大日寺に至り,この地より月山あるいは湯殿山に向かう。湯殿山繁栄は貞享2年大日寺の亮海が湯殿山道を新開したことに起因するという。岩根沢口には二口峠越えで入国した者が多く,まず山寺村(現山形市)の立石寺参詣の後に山形城下に至り八日町の行者宿に泊まるのが通例であった。山形から六十里越街道沿いに西進し,柴橋村(現寒河江(さがえ)市)西方の臥竜橋(文政年間完成)を渡り白岩村(現寒河江市)に入るが,同村より奥は神域となるので橋脇の茶屋で新しい草鞋と履き替え,慈恩寺などに参詣しつつ岩根沢の宿坊に至った。岩根沢より月山東麓を北上し,ブナ林の山道を上下して銅山川(烏川)の清流に出る。ここは行人清水と呼ばれ,行人小屋があった。これより山頂までの標高差1,000m余を真一文字に這い登って万年雪に出,山頂の月山神社に至った。本道寺口は村山郡内の者のほか南部方面(岩手県)からの者が最も多く,ここより月山を目差すコースと街道を西進して志津(現西川町)に至る場合とがあった。肘折口は7口中最大の難所で,利用者のほとんどは新庄藩領の者に限られていた。軽井沢越や雄勝峠から新庄藩領に入った秋田・南部の者は新庄城下から本合海(現新庄市)・清水(現大蔵村)などに出,最上川を舟で清川(現立川町)まで下り,清川から江戸街道を鶴ケ岡城下に至り,七日町の行人宿に泊まるのが通例であった。その後六十里越街道を南下して注連寺か大日坊に向かい,まず湯殿山から入山した。三崎峠(遊佐町)から入国する秋田・津軽(青森県)の者は酒田今町か鶴ケ岡城下のいずれかに一泊の後,やはり六十里越街道を南進して湯殿山に向かうのが通例であった。羽黒口は宝前院配下の手向の御師の「霞」が関八州から信越にも及んだことから,諸国より群参の道者で最もにぎわいを見せ,宿坊300坊が軒を連ねた。まず羽黒山口から月山北麓の緩い稜線をたどって弥陀ケ原に出,月山神社を経て湯殿山神社に至る。松尾芭蕉もたどった道であり,7口中最も一般的な経路で,その後大日坊や注連寺を巡り鶴ケ岡城下に出る。羽黒山域のみ羽黒山領であるが,庄内藩領以外に出ることがない。庄内藩では村山・最上両郡から入山して庄内に抜けることを懸掛(かけこし)と呼んで禁止したが,入国する者が跡をたたなかったので無手形入国として取り扱い,出判は5文,入判は15文の手数料を徴収した。無事三山参詣を終えた道者は城下や町場の宿屋で思い切り羽根を伸ばすのが通例であった。本県域では男子が15歳の成人に達した年に三山参りをするのが大切な行事ともなっていた。明治維新下の排仏毀釈によって山内の寺坊は廃棄され,月山神社が官幣大社に,羽黒・湯殿山両神社は国幣小社に列格した。羽黒派修験道の諸行事として,12月31日からの松例祭(冬の峯),8月の峰中行事(秋の峯)が現在も伝えられており,今日も登山する白衣の行者姿は絶えず,年間30万人にものぼる。出羽三山は,信仰・修験の山であるとともに,芭蕉をはじめとする数多くの文人墨客によって描かれ詠まれてきた文学の山でもある。「おくのほそ道」で松尾芭蕉は,「涼しさやほの三日月の羽黒山」「雲の峰いくつ崩れて月の山」「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」などの名句を残している。月山高原ラインの開通のほか,六十里越街道(国道112号)の大改修なども行われ,年を追うごとに春・夏スキーや登山などの観光面でのにぎわいを見せている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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