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長井荘
【ながいのしょう】


旧国名:出羽

(中世)鎌倉後期~戦国期に見える地域名。屋代荘・成島荘・北条荘などをふくむ置賜(おきたま)一円の汎称。単に長井ともいう。「和名抄」に見える古代置賜郡の長井郷の範囲をはるかに越えて郡内一円に及ぶ地域をさす。鎌倉期~南北朝期の康暦2年頃まで,置賜一円の荘園・公領の地頭は関東御家人長井氏であった。長井氏一門の人びとは多くの家に分かれて郡内の各地を分割相続しながらも,全体としてのまとまりを失うことなく約200年間置賜一円にわたる支配者の地位を保った。置賜一円が長井荘あるいは長井と称されるようになったのはそのためと思われる。金沢文庫(現神奈川県横浜市金沢区)に伝わる典籍類のうち「教相義釈」(県史15上)の奥書には,「出羽国長井屋代庄八幡宮一実房了」「弘長三年〈癸亥〉七月十日午時許了」と記されており,早くも鎌倉期の弘長3年には屋代荘が長井を冠して呼ばれていることが知られる。また南北朝期の延文・応安・永和年間から室町初期の応永5年頃にかけて書写された堂森新善光寺大般若経奥書のなかには「羽州置民郡屋代庄河井郷内堂森新善光寺常経也」(巻525)などとある一方で,「出羽国長井庄堂森今善光寺常住物,延文二年〈丁酉〉十一月□日」(巻173)などと記すものが多く見られる(立石寺文書/県史15上)。なかには「長井屋代庄河井郷堂森之常住経也」(巻530)などという表現さえも見られ,置賜一円を長井荘と呼ぶ俗称が屋代荘という正式な名称に代わって用いられるようになった経過が知られる(同前)。南北朝末期に長井氏の勢力が失墜し,置賜一円が伊達氏領国になると,長井荘あるいは長井という俗称はより一層の頻度をもって用いられるようになる。康暦2年10月8日伊達宗遠は石田左京亮に「出羽国置民郡長井荘鴇谷郷内」の田地を宛行っているが,これは伊達氏による置賜攻略直後のことと伝える(正統世次考/県史15下)。同じく南北朝末期の嘉慶2年7月4日には「出羽国置民郡長井庄萩生郷内四十九貫八百四十八文」の田地を国分彦四郎入道に配布した伊達政宗(9世)の知行配分状(国分文書/県史15上)が知られる。これ以後,置賜一円を長井(荘)と呼ぶ俗称は枚挙に暇がないほど一般的に用いられるようになる。慶長5年8月22日関ケ原の戦を目前にした徳川家康は判物(伊達家文書/県史15上)をもって伊達政宗に,苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の旧領7か所の約束をした。いわゆる100万石のお墨付である。この判物に添えられた知行目録(同前)によれば長井は7か所のうち最大の石高,17万7,933石分を占めていた(伊達家文書)。長井が天正19年秀吉によって没収された政宗の旧領置賜一円をさすことはいうまでもない。長井という地域の名が単なる地方的な俗称にとどまらず,家康の公式文書によっても用いられるほどの権威を有していたことが知られる。また長井荘は置賜一円の汎称であるだけではなく,より狭く屋代荘・北条荘を除いた置賜の西半分をしめす地域名としても用いられていた。米沢盆地の最上川・羽黒川以西と長井盆地の全域,現在の米沢市(中・西部)・長井市・南陽市(一部)・川西町・白鷹(しらたか)町・飯豊(いいで)町・小国(おぐに)町がその範囲に含まれる。いわば狭義の長井荘である。しかも,この長井荘はさらに上・下に分けられて,上長井荘・下長井荘と呼ばれていたのである。単に上長井・下長井とも称した。上長井荘は成島荘の荘域と全く一致する。米沢盆地の西南部,最上川・羽黒川以西の平野・山間部,現在の米沢市中部および西部,川西町・高畠(たかはた)町の一部がその範囲に含まれる。天文7年御段銭古帳(県史15上)によれば,桐原・長橋・一漆・轟・若宮・糠部(野目)・矢野目・小瀬・上平柳・下小其塚・下平柳・小其塚・小菅・尾長島・小山田・東江股・川辺・藤泉・成島・下窪田・中田・宮井・荒川・塩野・防中・山岸・米沢・谷地・遠山・福田・古志田・笹野・李山・山上・八木橋・西江股が「上長井之庄」とされている。また下長井荘は米沢盆地の北西部,最上川の左岸,および長井盆地の全域を範囲とする,現在の川西町・飯豊町・小国町・長井市・白鷹町の地域であり,南陽市の一部,梨郷などがそれに加わる。飯豊山系から最上川に注ぐ置賜白川(おきたましらかわ)を境として,下長井荘はさらに南・北に二分されることもあった。天文7年御段銭古帳(県史15上)によれば,「下長井白川より南」として,堀金・下小松・大舟・門の目・高豆蒄・南吉田・北吉田・川(河)井・大塚荒井・中津川・上小松・松森菊田・片岸・浅立・関根・中小松・梨郷・柳沢・露橋・今泉・黒川・添川・玉庭・朴沢・高山・伊佐沢・洲の島・哥(歌)丸・奥田・時田・莅・大塚があげられている。現在の川西町の全域(尾長を除く),飯豊町の置賜白川以南,長井市の置賜白川以南,最上川以東の平野・山間部にわたり,白鷹町の浅立,赤湯市の梨郷・関根・露橋がこれに加わる。また「下長井白川より北」としては,畔藤・椿・小国・横越・黒沢・小出・小白川・きのね沢・手子・火神台(勧進代)・鴇(時)庭・五十川・荒砥・宮・高擶(玉)・中村・川原沢・泉・萩生・萩生南方・成田・寺泉・白兎・平山・草岡・九野本があげられている。現在の飯豊町の置賜白川以北,長井市の置賜白川以北,最上川以西,小国町・白鷹町の平野および山間部にわたる。これら上長井・下長井の郷村名は文禄3年の蒲生高目録においても大体において踏襲されており,天正19年伊達氏の転封後もなお,上長井・下長井が独立した行政単位となっていたことが知られる。それでは上長井荘・下長井荘の呼称の成立年代はいつ頃であろうか。長徳寺観音堂(長井市大字成田)の大般若経(版本)の奥書には「長井庄成田村観音堂」「応永十一年〈申〉八月吉日」(巻1)と記すものが数多く見えるが,「下長井庄成田村観音堂常任」「応永十一年〈甲申〉八月吉日」(巻13)と記すものもまた同じく数多く見られ,下長井荘という呼称がこの頃すでに成立していたことが知られる(熊野大社文書/県史15下)。おそらくは南北朝末期,伊達氏が置賜一円の主となるに伴って,上長井荘・下長井荘という地域名が伊達氏の行政単位として成立したものかと思われる。永正~大永年間の伊達稙宗の治世ともなれば,上長井・下長井の呼称は枚挙に暇がないほど頻繁に用いられている。たとえば,永正12年11月16日には「上長井きり原の郷之内,佐藤九郎在家一宇」を山路藤七に,永正16年3月9日には「上長井の庄かうつく(高蒄)の郷三丁目之内,菅藤次郎在家之内の田五百苅」を大河原五郎左衛門にそれぞれ安堵した伊達稙宗の判物が知られる(伊達家文書/県史15上)。なお,上長井荘・下長井荘のうち,上長井の前身が成島荘であり,伊達氏以前の領主が長井氏であることは明白である。だが下長井については前身が荘園か公領か不明である。領主についても確証はない。平安後期の12世紀頃,古代の置賜郡の分割が行われて,置賜東・南部に摂関家領成島荘・屋代荘,そして北部に北条荘が成立したときに,西部の地域だけは荘園とはならず公領として存続したのではないかと考えられる。平安中期頃の郡衙跡と推定される道伝遺跡(川西町)がこの地域に属していることは偶然とは思われない。道伝遺跡を含む米沢盆地西部(川西町)の郷村は近世に「中郡」と称された。この「中郡」という呼称もあるいは,この地域が荘園化せず中世になっても置賜郡の中心として存続していたことを暗示するかもしれない。置賜地方,米沢市・長井市・南陽市・高畠町・川西町・白鷹町・飯豊町・小国町を含む一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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