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羽黒山
【はぐろさん】


月山北西麓に位置する標高419mの丘陵。第三紀頁岩層からなる。所在地は東田川郡羽黒町大字手向字羽黒山。月山・湯殿山とともに,出羽三山の1つ。羽黒の由来は,出羽三山開祖とされる蜂子皇子を導いた3本足の烏の羽色にちなむという。門前集落手向(とうげ)から山頂までの1.7kmは石だたみの表参道が続き,その両側には樹齢300ないし500年になる杉の巨木の並木が屹立する。山内には,国宝五重塔,松尾芭蕉の史跡南谷,頂上近くの桃山風の書院造の斎館,三山合祭殿などがある。手向は羽黒山の門前集落で,ここから本殿のある山頂まで有料自動車道が通り,麓には羽黒国民休暇村・羽黒スキー場などがあり,四季を問わずにぎわっている。羽黒山は古来より羽黒修験の霊場として殷賑を極めた。これに月山・湯殿山を合わせた出羽三山は一体のものとして信仰されてきており,月山・湯殿山が冬季積雪のため参拝できないので,羽黒山に三神合祭殿を設けてこれを本社としている。また月山・湯殿山が女人禁制であったのに対し,当山のみは婦女子の参拝が許された。羽黒修験の起源は明確でない。社伝によれば崇峻天皇の御子蜂子皇子(能除太子)が羽黒を開山し,のちに役小角(えんのおづぬ)が中興したといい,山中に蜂子神社が祀られている。この開山説はもとより信じ難い。役小角に始まったとする葛城・金峯の修験道よりさらに古いことを宣伝するためつくられた説話であろう。「深仙灌頂系譜」などは出羽国出身の黒珍が延暦4年羽黒山に初めて熊野権現を勧請したとしている。一般に羽黒修験ははじめ天台系の本山派(熊野修験)に属していたが,のちに真言系の当山派(吉野修験)に転じたとされている。しかしもともと修験者の所属はきわめてあいまいだった。「慈慧大師伝」によると,貞元2年都で杜欽をかぶり,百八摩尼珠を手にした行者たちが,激しく法螺貝を吹き鳴らして歩き,「われわれは役小角の徒である。久しく師の名をきいていたが,いま羽州の霞をでて,はるかに廬峰の雲に入るところである」と言ったという。この行者たちを羽黒山伏とする説が強い。当時まだ羽黒修験は熊野・吉野修験と別派意識をもっていなかったと思われる。これが平安末期から鎌倉期になると,熊野権現が天竺から日本に到来した当初,羽黒に宿を借りたという伝説が起こり,羽黒本社の西廂に勧請された熊野権現を客人権現といった。そして羽黒神が東33か国を支配し,熊野権現は羽黒神から西24か国をゆずられて,紀州に遷座したなどという説話が生じた。最盛期の羽黒修験はたしかに天台色が濃かったが,本山派に属したとはいえない。羽黒修験は独自のものであった。これが当山派に属するようになったのは,羽黒修験が衰微しだした室町期~戦国期以降だろう。江戸初期羽黒の傑僧天宥が別当となり寛永寺(現東京都台東区)天海僧正と結んで,羽黒修験をあげて天台方に転じようとしたが,湯殿山の修験らが猛烈に反対するなどして十分効を奏しなかった。羽黒山でも山上の本社を中心とする清僧・行人は真言方,谷の五重塔の清僧・行人と麓の手向居住の妻帯修験は天台方と別れていたが,本社への出仕や法会の執行権には甲乙がなかった。羽黒修験の修法には天台系のものが少なくないが,真言系とくに広沢流のものも多く混っているという。羽黒山の特殊神事としては5月8,9日の田植祭,7月15日の羽黒花祭などがあり,開山蜂子皇子の命日とされる羽黒山八朔祭は「田面作り」ともいわれ,二百十日の無事を祈る。特に12月31日から元旦にかけて行われる松例祭は最大の行事で,綱撒神事,大松明引神事,火打替神事と続くが,一種の虫送りの神事で参拝者が群集する。また羽黒山は文化財の宝庫である。出羽三山合祭殿(羽黒山三山合祭殿)は県文化財,拝殿と本殿を1つの萱葺きの大屋根におさめた権現造りで萱葺き社殿としては最大のものであり,雪国の重厚さを示して見事である。特に圧巻は合祭殿の前の御手洗池(鏡が池)から出土した銅鏡で,かつて参詣者が祈願をこめて投入したもので,国重要文化財に指定され,現存数434面を数える。出羽三山神社所蔵鏡190面を時代別に見ると,平安期91,鎌倉期56,室町期2,桃山期1,江戸期3,未詳37で,羽黒の盛時を物語っている。五重塔は国宝で,承平年間平将門の創建とも伝えられる。山頂の梵鐘は建治元年の銘がある日本第4位の大梵鐘である。文永の役の時の法力に感謝し,鎌倉将軍惟康親王が奉納したもので,国重要文化財に指定されている。寛永年間,別当天宥が植えたという参道の杉並木は国特別天然記念物に指定され,日光の杉並木にまさるとも劣らない。源頼朝が麓の手向に建てたと伝えられる黄金堂その他重要文化財や県文化財が数多く残されている。




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「角川日本地名大辞典」
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