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銀杏坂
【いちょうざか】


水戸市三の丸1丁目と宮町2丁目の境にある坂。国道50号が通る。水戸市街のほぼ中央部に位置し,台地の上市と坂の下の国鉄常磐線水戸駅,低地の下市を結ぶ重要な役割を果たす。坂下に大銀杏樹がたつ。坂の上には水戸郵便局があり,茨城県庁などの官公庁街にも近い。坂の両側に証券会社・ホテル・旅館・映画館・飲食店・書店などが並び,水戸駅前の繁華街と東照宮下の娯楽街となっている。城下町時代には南三の丸銀杏見付を降りる鉤形に屈曲した坂を銀杏坂といった。「水府地理温故録」に「上使屋敷と筧家の前路,上使屋敷の脇はづれ土堤際に番所あり。坂口に柵門あり。則銀杏坂といふ。往昔銀杏の大木ありしゆえ,此名今に存せりとなり」とある。天保元年の水戸地図によると,付近に筧介大夫(1,000石)・松平主書(2,000石)など大身武家の屋敷のあったところで,その南側に城郭を囲む土堤・濠があり,さらに東照宮へと続いて,城下の要地であった。そのため,柵町には名の示す通り柵門が設けられて,庶民の通行は許されず,当時の上町・下町の連絡路は那珂川沿いの杉山通りと千波湖中の柳堤に限られていた。しかし,明治16年には新しく現在の銀杏坂に相当する銀杏坂切通しが開かれ,柵町を通り,上・下市間の交通も便利になった。「東京ヨリ茨城県街道ハ下総国北相馬郡大鹿村地内カラ東茨城郡水戸上市茨城県庁ニ達ス」(明治16年6月28日茨城県令人見寧)とあるのは,台町経由を県庁経由とし,銀杏坂切通しを経て本町通りに達したものと思われる。さらに,明治19年の水戸大火のあと,翌20年に銀杏坂切通しを改修し,明治22年に水戸鉄道水戸駅が開設されると,武家屋敷であった南町が商店街となり,泉町とともに水戸商業地の中心となる素地ができた。その後,大正7年にはそれまで中御殿跡にあった水戸市役所が移され,大正13年には水浜電車(のちの茨城交通水浜線)が通り,重要性を増した。国道6号は昭和13年に梅戸橋(常磐線陸橋)が竣工し,昭和15年から下梅香あたりの工事が行われて,千波湖畔を通るようになり,銀杏坂は国道50号となった。第2次大戦後の混乱期には坂の南側の焼け跡にヤミ市が立ったが,昭和27年道路が拡幅される頃には姿を消して,経済復興とともに整備されていった。なお,自動車交通の時代となって,茨城交通水浜線は昭和40年に廃線となり,水戸市役所も昭和47年に駅南に移転し,跡地に京成ホテルが建てられ,商業的機能が増した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7035517