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鹿島郡南条
【かしまぐんなんじょう】


旧国名:常陸

(中世)鎌倉期~室町期に見える広域地名。常陸国のうち。弘安田文の現存部分は,前部が失われているが,その失われた部分が鹿島郡の前半部で,現存の冒頭部分は「同宿内永江六丁八段三百歩」となっており,同宿内にはそれに続けて,林・小佐・保立・山上・片野・安宗名が記されている(税所文書/県史料中世Ⅰ)。「新編常陸」は,この同宿内を「中村宿」としており,欠失部分が当時残存していたとも考えられる。弘安田文には,その次に「下宿内」として「守真名二丁二段半」以下,久清・国忠名・阿前・宮武吉名・貞国名・国正名・猿小河・五郎丸・平浜・高浜・筒井・泉河・矢田部・矢田葦前・嶋前をあげている。これらに付記された田数をそれぞれ合計すると,中村宿75町5反300歩,下宿258町8反60歩で,南条分の田数は334町4反となる。嘉元田文には,鹿島郡南条の惣田数を350町とし(所三男氏所蔵文書),康永2年正月9日書写の鹿島神宮領田数注文案も同じ田数であるが(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),これは先の弘安田文の残存分合計田数とそれほど違わず,弘安田文の欠失部分はさほど多くないと思われる。弘安田文によれば,鹿島郡南条と鹿島郡北条との境は,南条の林と北条の白鳥郷内志崎・武井の間である。古代以来の鹿島神宮の神郡であった鹿島郡が,南条と北条とに分かれた時期および経緯は不明。しかし弘安田文にも見えるように,郡内には広大な別名(神官名)が形成されているから,おそらく当郡も平安末期頃に郡自体が社領荘園化するとともに,その支配の便宜上,南北に分割されたのであろう。康永元年8月15日の鹿島尾張権守利氏申状案によれば,鹿島利氏は本知行分として「常州鹿島郡南条下宿宮本郷内永助・吉久両名田畠在家,岡野村,葦前村,益田村及宮本屋敷一所〈号大判官代内〉,馬場二鳥居南面屋地,同内田曳相里五段」を有していたという(後鑑)。利氏はおそらくこの頃の鹿島氏惣領を名乗った人物と思われるが,未詳。鹿島氏惣領は,代々宮本郷を本拠地としていたので(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),利氏もその知行権を主張したのであろう。応安5年4月17日の沙弥本光譲状写には,「鹿島郡南条沼尾宿内田野辺・田谷・笠貫・沼谷・大抜戸・東浜并野,及太宮桟敷一間以下地頭職」が,鹿島沼尾氏の間で相伝されている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。このように鹿島郡南条には,鹿島氏惣領および庶子家が,鎌倉初期頃より土着していた。しかし南北朝の動乱に際してこの付近にも他の勢力が進入し,康暦2年5月7日の木滝家親寄進状によれば,木滝氏が鹿島の根本寺に対して南条下宿内の「そりまち大なわ本東三反,社地上里廿四反,同里四反」等を寄進し(根本寺文書/県史料中世Ⅱ),また応永24年8月25日の永観寄進状では,某永観が「なんてうしもしゆくのうち,いわたの里七の田,ミなミなハもと二たん」等を同じく根本寺に寄進している(同前)。なお鎌倉期~室町期に南条に広く分布していた鹿島氏には,惣領鹿島氏のほか,立原・林・沼尾・田野辺各氏がいる(常陸大掾系図/続群6上)。現在の鹿嶋市(旧大野村南部と鹿島町)・神栖町・波崎町を含む地域に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7036254