100辞書・辞典一括検索

JLogos

17

鹿島臨海工業地帯
【かしまりんかいこうぎょうちたい】


鹿嶋市・神栖(かみす)町・波崎町の1市2町にまたがる重要港湾鹿島港を中心とした約3,700haの工業地帯。昭和35年4月県により「鹿島灘沿岸地域総合開発の構想」が策定されて開発された鉄鋼・石油化学コンビナート。県の南東端に位置し,太平洋と北浦・利根川に挾まれた東西4~8km,南北約35kmの半島状で,洪積台地と沖積低地からなり,海岸線沿いや内陸に鹿島砂丘が発達する。年平均気温は15℃,年平均降水量1,000mm程度で,本県で最も温暖な地域である。首都東京から約80km圏内にあるが,利根川などの自然的障害もあり,陸上交通が不便で,千葉県佐原市や銚子市などとの関係が深く,「ちばらきけん」といわれていた。開発前の産業は農業と漁業が中心であったが,地力が弱く交通不便で市場に恵まれず,生産額は県平均を下まわっていた。また,第2次産業も澱粉加工などであった。そこで,県は広大な平地林(約5,400ha)と霞ケ浦・北浦の豊富な水(貯留量約8億m(^3))に着目し,大規模な臨海工業地帯を造成するため,昭和36年,「鹿島臨海工業地造成計画」(マスタープラン―同37年改訂)を作成し具体化した。地耐力の良好な3,300haに及ぶ工業用地の造成と港湾建設を中心に道路・鉄道・工業用水などを整備することにより,地域格差の解消と茨城県の飛躍を図ることを目的としている。開発地域は,旧鹿島町56.95km(^2)・神栖町81.05km(^2)・波崎町68.77km(^2)の計206.77km(^2)。計画期間は昭和38~50年度とし,土地造成計画は,工業用地3,300ha・住宅団地670ha・港湾用地330ha・その他670haの合計約5,000ha。人口30万(昭和50年実績9万9,816人,同55年現在10万6,185人と計画の3分の1),就業者12万2,000人(同55年現在4万9,696人)の大都市が出現することになっていた。昭和38年に鹿島地区が工業整備特別地域に閣議決定,翌年9月指定。鹿島地区(鹿島・行方(なめがた)の両郡12町村)における工業開発の中心とする地域開発の方針が定められ,目下第3次基本計画(昭和56~60年)が推進されている。工業整備の目標として,昭和60年における工業出荷額を2兆2,500億円(開発当初1兆1,000億円)とし,総人口は約27万人,工業用地3,300haをはじめとする諸施設の整備,環境保全および災害の未然防止の徹底を図ることが盛り込まれている。同42年8月,鹿島町・神栖町・波崎町の区域が鹿島臨海都市計画区域として決定され,9月には首都圏整備法による都市開発区域指定に伴い,工業団地造成事業が都市計画事業として行われることになった。道路・公共下水道・緩衝緑地・公園・土地区画整理などの事業が都市計画事業として実施されている。鹿島開発の推進体制は,県の企画部鹿島開発局や土木部・農地部・農林水産部・企業局など。鹿島開発本部を中心に,用地確保のため県および地元3町の4者からなる鹿島臨海工業地帯開発組合を結成し,昭和43~44年にかけては,県3町進出企業などからなる第三セクターとして,鹿島埠頭・鹿島臨海鉄道・鹿島都市開発が創られた。昭和39年に用地買収が開始されたが,土地のほとんどが民有地であったので,土地減少の負担を平均化するため,開発区域内のすべての土地所有者から所有地の40%に相当する土地の提供を受ける鹿島方式(4割提供6割還元方式=4・6方式)で買収。買収予定面積6,690haに対し昭和55年度末における買収済面積は6,650haである。計画が進むにつれ,神栖町居切浜・深芝浜・池向地区などでは地元住民が絶対反対を唱え,鹿島地方でも開発反対の動きがあった。工場・港湾などの造成地区内からの移転者および4割を超えた用地提供者への代替地とするため,地域内に大小49か所の代替地を造成。途中代替地の造成ができないため,これを受けられない者に対しては,開発組合は「念書」を交付して処理した。開発の中核として,居切浜より掘割川に沿って内陸に向かってY字形に掘込式港湾鹿島港を建設。昭和37年5月港湾法に基づく地方港湾に指定,翌年4月には重要港湾に指定された。同年11月起工式,同40年11月に中央航路掘込み開始,同43年開削,翌44年10月検疫法に基づく検疫港になり,10月15日開港式を迎えた。同45年税関・検疫所・海運局・海上保安署などの政府海事機関が設置された。航路は,原料製品岸壁などの係留施設の延長は約1万2,000mで86バース(同55年)。鹿島石油の20万tドルフィンをはじめ,1万t級のバースは26に及ぶ。深芝公共埠頭岸壁・南公共埠頭岸壁の5バース以外は企業の専用バース。進出企業については,すでに同41年11月に進出折衝中の企業18社を公表,翌年23社の立地を決定した。住友金属は同43年4月から高松地区の飛行場跡地に工場建設に乗り出し,同44年10月には熱間圧延工場の操業を開始した。同年5月鹿島地区石油化学コンビナート合同起工式(11社),翌45年6月には三菱油化が操業を開始。その後も相次いで操業開始,同46年には住友金属鹿島製鉄所第1号高炉の火入れがあり,石油化学コンビナート13社が一斉に操業。さらに工場用地の譲渡契約を締結し,同57年3月末現在で,立地工場数は69企業74工場,うち5企業5工場が未操業。鉄鋼業の中心的存在住友金属工業鹿島製鉄所は,中央航路沿いの623haの敷地に3基の大型高炉を持ち,第3高炉(年産400万t)は内容積5,050m(^3)で世界最大級。粗鋼年産能力1,150万t体制を確立。熱延・鍛接管・厚板・冷延・溶接H形鋼・大径鋼管・亜鉛メッキなどの設備が稼動する日本有数の製鉄所。鉄鉱石はオーストラリア・ブラジル・インド・南アフリカなどから,石炭はオーストラリア・アメリカ・カナダなどから輸入。原料製品岸壁が22バース。旧神栖町深芝浜・池向・奥野谷浜を中心とした神之池(ごうのいけ)東部地区817haは,工業地帯の核として石油化学コンビナートが形成されている。三菱油化・東京電力・共同石油・大協石油の4社共同出資による鹿島石油鹿島製油所(資本金200億円・従業員800人・日産18万バーレル)が立地。LPG・ガソリン・灯油・軽油・重油・ナフサ・アスファルトなどを生産し(昭和55年は4,007億円),コンビナート内24社に供給する。鹿島南共同発電(同55年の資本金30億円,従業員82名)は,東部地区の化学会社7社共同自家発電会社で,7社と関連会社に電気と蒸気を供給する。東京電力鹿島発電所は同46年に第1号機運転開始,現在440万kwを営業運転し,電気は工業地帯と関東一円に送電される。工業地帯の開発に伴い,国道51号・124号はじめ都市街路17路線の整備,橋梁の整備がなされ,陸の孤島から脱皮した。さらに国鉄鹿島線は,千葉県香取駅から北鹿島駅間17.4kmが昭和45年8月に開通,現在北鹿島~水戸間52.6kmが昭和60年の開通をめどに工事中。工業地帯からの貨物輸送のために設立された国鉄・県・立地企業からなる第三セクター鹿島臨海鉄道19.2kmも北鹿島~奥野谷浜間が同45年に開通,年間貨物取扱量は約170万t。工業用水道は北浦を水源に1日81万m(^3)の能力をもつが,さらに1日30万m(^3)を整備中。特定公共下水道の処理能力は現在1日16.5万m(^3)であるが,最終計画能力は1日33万m(^3)を整備する予定。公害防止対策の一環として,工業団地と住宅地区間に127.7haの緩衝緑地帯が造成されている。人口は開発前の昭和35年に比べ,同55年には鹿島町2.4倍,神栖町2倍,波崎町1.4倍と,全県の1.2倍より増えた。世帯数は3町合計で3倍の3万1,333世帯,就業構造は,開発当時3町で72.1%を占めた第1次産業従事者が,昭和55年には14.7%に激減し,逆に第2次は10%から39.7%,第3次は17.9%から45.6%へと増加,農業労働者が企業へ移った。農家戸数も大きく減少し,兼業農家が増加した。3町29か所に造成された営農団地の代替地は一戸平均1.2ha。農地の都市型用地への転用から経営規模は減少し,施設園芸農家が増加。神栖町大野原北部造成替地の都市化現象が顕著で,幅40mの都市計画路には地上14階地下1階の鹿島セントラルビルをはじめ大小の建物が並び神栖銀座とよばれている。知手団地のすずらん通りもにぎやかな商店街を形成している。3町とも教育施設は完備され,近代的役場庁舎もできたが,上水道普及率は神栖・波崎が61%で県平均70%より低い。公共下水道も低いが,ごみ焼却・高速堆肥化率は全国平均を上まわる。開発理念の「農工両全」の評価は分かれるところである。かつての田園風景が一変し,火力発電所の集合煙突,三菱油化の200mの集合煙突など,赤と白に塗色された煙突群の景観が際立つ。「公害のない鹿島」を目指したが,昭和45年頃から大気汚染・粉塵・悪臭・騒音などが目立ちはじめた。各町に公害課が新設されたり,公害防止条例の制定,公害防止協定の締結(同48年6月)などの環境保全対策がなされるなかで,町の自主観測体制も整備され,改善されつつある。安全対策については,石油コンビナートなどの災害防止計画をたてたり,保安対策協議会の設置により,共同防災体制を確立し防災訓練を実施している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7036272