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加納十二箇郷
【かのうじゅうにかごう】


旧国名:常陸

(中世)鎌倉期~南北朝期に見える広域地名。常陸国行方(なめがた)郡のうち。行方郡は神郡とよばれた鹿島郡とともに中世鹿島社領の多い郡であるが,鹿島社大禰宜職に付属する中核的所領は本納とよばれ,平安期に成立したものと思われる。平安末期の保延5年8月,もと金泥大般若経書写䉼所であった小牧・加納が日次御供䉼所として鹿島社に寄進され,摂関家を本家とする大禰宜職付属の社領(職領)となった(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)。本来行方郡内の郷々に散在する所領であったらしく,鎌倉期には加納十二箇郷と総称されるが,この郷数が平安期以来のものか否かは不明。鎌倉末期~南北朝期に確認できるのは相賀・高岡・山田・大崎・四六・石神・青沼・倉河の8郷(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)と夏苅村で,ほかに大和田(小幡郷内大和田村)(「民経記」安貞元年10月巻裏文書/鎌遺3100)・飯田村(「民経記」安貞元年12月21日)および成井村(鹿島文書/新編常陸)が加えられる。面積は,嘉元田文に146町3反とあり(所三男氏所蔵文書),康永2年正月9日書写の鹿島神宮領田数注文案では146町6反60歩,その内訳は,㝡勝講田10町,毎月御供田1□9(129か)町3反300歩,毎夜御燈油田7町2反小と記されている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。これは同史料に記された行方郡の鹿島社領総田数の約42%にあたる。鎌倉期には他の鹿島社領と同様,地頭との相論および大禰宜家中臣氏の相続紛争などが繰り返された。鹿島社領の行方郡加納については,すでに文治6年3月日の常陸国在庁官人解状および同日付の鹿島大神宮神官等解に見え,前大禰宜中臣重親と当大禰宜中臣親広の神領・屋敷の伝領をめぐる対立に関して「件名田及神領等,就大禰宜職令領掌者,往規之例也」との先例・原則がみられる(同前)。ただし,この2通の文書は研究の余地がある。一方加納を含む行方郡の鹿島社領における地頭との相論は元暦年間に早くもみられ,建久2年11月には中臣親広と地頭行方景幹双方の新儀を停止し,先例と前右大将家下知状の旨に任せ恒例神事を勤行すべきを命ずる摂政前太政大臣家(九条兼実)政所下文が鹿島社司并常陸国在庁官人等に発給されている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。親広は正治2年12月19日,「大禰宜職并用重名田畠,行方郡加納・麻生・大枝・橘郷」を嫡子中臣政親に譲った(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)。しかし承元2年7月5日の常陸国留守所下文によれば,本納・加納・麻生など行方郡の神領はこのときまで大禰宜中臣則親が領掌しており,これを政親に領掌せしめることを命じている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。ところで地頭と社家の下地支配をめぐる対立は鎌倉期を通じて続いたらしい。文保2年11月日の関白前左大臣家政所下文によれば,嘉禎3年より数年ののち加納十二箇郷の下地中分が行われたらしく,「社家与地頭令折中下地,半分者為給主屋敷・名田,地頭更不相,半分者雖為地頭進止,有限所当者,社家毎年遂検注,令収納之,所奉備日次御供米也」と定めたという(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)。この下地中分は全国的にみても早い例の1つとされているが,その後も社家の遷替を好機として地頭の下地の押領,検注の押妨が続き,日次仏供は次第に有名無実化した。これに伴って大禰宜の神事闕怠も問題化し,弘安7年9月の関白前太政大臣家政所下文には前大禰宜中臣則景が日次御膳の闕怠により改易されたこと,実則以降はその罪科によって改補されることが例となり,闕怠があれば改易されても恨みたるべからざる由の請文を捧げたこと,拝殿遷宮の延引が中臣頼親の「老耄」によるとして孫の中臣朝親を大禰宜職に補任し加納十二箇郷以下の神領を領掌せしめ,神事の興行・日次御膳の勤仕を命じたことが見える(鹿島文書/新編常陸)。同時に大禰宜職をめぐる中臣家内外の争いも表面化し,正応4年7月日の関白左大臣家政所下文に,朝親が「譜代正流」であるにもかかわらず,中臣実則・則景等が濫訴により大禰宜職を競望したこと,宗則なる者が「異姓之身」にして中臣氏と号し同職を望んだことなどが見える(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。このような社領支配の危機的状況の打開を目指して精力的な動きをみせるのは朝親の嫡子中臣能親である。正安3年4月22日大禰宜職と加納十二箇郷以下の神領を譲られた能親は大崎郷・成井村・相賀郷・山田郷・小幡郷・四六村などの加納の郷地頭を嘉元以来の供䉼米未進などで訴えた(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)。これに対し地頭はそれぞれ陳状を提出し,能親の主張を「新儀濫訴」として反論した(同前)。ことに加納が請所であるか否かが両者の争点の1つとなっている点が注目される。しかし,徳治年間~延慶年間の関東下知状等によれば,地頭側主張はいずれも退けられたらしい(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。一方おそらく大禰宜職補任以前,能親は権禰宜として孫太郎則氏(中臣氏)と大窪郷を争った。両人の問注記には加納について「専付渡大禰宜職所領也」「大禰宜職者遷替職也,然者職領与相伝所領各別也」などの注目すべき文言が見える(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。しかし能親の精力的な社領回復の努力も実らなかったらしく,文保2年11月の関白前左大臣家政所下文によれば,先述のごとく大禰宜中臣良親が加納十二箇郷に対する地頭の押領・対捍により日次仏供が有名無実となったことを訴えている(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)。良親は正中3年3月,大禰宜職と加納十二箇郷以下を嫡子毘沙松に譲与したが,毘沙松に男子のない場合は「一門中器量之仁」に譲るべきこと,女子・他人に譲ってはならないことが定められている(同前)。建武元年10月18日大禰宜中臣高親の訴えにより雑訴決断所が常陸国衙に地頭などの下地濫妨・神用物抑留の停止を伝え(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),高親が雑訴決断所の指示に応じて同年12月社領を押領した地頭などの交名を注進している(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)。室町期と推定される年月日未詳の常陸国行方・鹿島郡切手郷注文に伊勢神宮役夫工米切手郷として加納の名があげられている(税所文書/県史料中世Ⅱ)。加納十二箇郷は行方郡東部で北浦西岸の,現在の麻生町・北浦町に散在していた。




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「角川日本地名大辞典」
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