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上幸嶋
【かみさしま】


旧国名:下総

(中世)南北朝期~戦国期に見える広域地名。下総国のうち。古代の猨嶋郡は中世に入り上幸嶋・下幸嶋に二分される。このうち下幸嶋は荘園として立荘されるが,上幸嶋は荘園となった形跡はない。ただし,上幸嶋・下幸嶋をあわせて幸嶋荘とも称された。正慶元年正月5日の空如覚書写に「成然御房 下総上幸嶋市野谷」,康永3年仲冬朔日の親鸞聖人御弟子交名にも「成然御房 下総上幸嶋妙安寺」と見え,現在の境町一ノ谷にある妙安寺が二十四輩の第6番性然の遺跡である(帰願寺文書)。一方,南北朝期,当地内の青島村は法雲寺正受庵領であり,康暦2年9月6日に上杉憲方,永徳元年8月日に木戸法季,同年8月6日に上杉朝宗がそれぞれ青島村に軍勢甲乙人の「濫妨狼藉」に対する禁制を出している(法雲寺文書/県史料中世Ⅰ)。また,両界秘伝抄の奥書に「醍醐慈院ニテ御求候御本ヲ以テ火急ニ草案候ヲ又老眼ニテ写候……上幸島仁礼之郷妙厳寺〈六十一歳〉……天文七戊戌五月……書畢」と見え,この書が当地内仁礼郷の妙厳寺で天文7年5月に書写されている(昭和現存天台書籍綜合目録)。当地は15世紀後半に古河公方の御料所になったものとみられ,戦国期の年未詳6月12日の足利高基充行状写によれば,「上幸嶋荘之内泉田郷」が赤松入道に充行われている(常総遺文/古河市史)。同文書には「上幸嶋荘」と記されているが,また,永禄11年6月3日には足利義氏が皆吉修理亮に「上幸嶋郷并本領」を充行っている(水府志料所収文書/古河市史)。天正2年12月2日の芳春院周興・昌寿連署書状写には「上幸嶋」として14か所が記載されており(喜連川家料所記/古河市史),野田政朝・豊前左衛門尉など8名に充行われていた。現在の境町・猿島町,三和町西部に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7036506