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筑波北条
【つくばほうじょう】


旧国名:常陸

(中世)鎌倉期~戦国期に見える広域地名。常陸国筑波郡のうち。弘安田文に「筑波北条三百四十八丁一段」と見え(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文では「筑波北条 三百廿三丁四反小内」とある(所三男氏所蔵文書)。筑波北条は多気山南麓の地で,平安後期常陸平氏の本宗が水守から多気山山麓に移り,多気氏と通称された。「吾妻鏡」建久4年6月5日条,同22日条に見える「多気山城」は平(多気)義幹の居館として知られ,筑波北条が古くは多気と呼称されたことを裏付ける。常陸平氏の勢力拡大が進行するなかで,12世紀初頭には筑波郡が南北両条に分かれたと推定される。筑波北条は常陸平氏本宗の支配下に置かれて所領化が進み,鎌倉初期まで当地は多家(平)氏の支配下であったが,建久4年には常陸守護八田知家の攻撃により没落し,小田に拠点を置いた八田氏(小田氏)の勢力下に置かれたと思われる。延元元年8月26日の相馬胤平軍忠状に南朝方の小田氏属城として「北条城」が見える(相馬文書/大日料6-2)。室町期と推定される年月日未詳の常陸国切手郷切手員数注文には「筑波北条〈郡分共ニ〉七」と見える。応永30年10月3日の借銭状には「但,御しちにハ常陸国方(北)条之西熊野別当の引檀那を一円に入をき申候」とあり,同32年5月20日の借銭状にも「但,御しちにハ常陸国方(北)条西熊野別当門弟引旦那一円に入をき申」とある(米良文書/熊野那智大社文書)。天文18年3月19日の多門坊改源旦那売券にも「常陸国……田中庄一円,海老嶋・大嶋共ニ,北条,先達者熊野堂門弟引一円」と見え(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書),筑波北条の先達職は「熊野堂門弟」が所持していた。現在の真壁町南端からつくば市北部のあたりに比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7038343