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那珂台地
【なかだいち】


常陸台地の一部,県中央部に分布する洪積台地。北は久慈川,南は那珂川の沖積低地,東は鹿島灘,西は鷲ノ子(とりのこ)山塊系の所貫(ところぬき)(瓜連(うりづら))丘陵に囲まれ,北西から南東に分布する。県内では東茨城台地,行方(なめがた)台地,筑波・稲敷台地とともに面積が広い。東端のひたちなか市~東海村豊岡間で約17km,大宮町付近で2kmと北西部に移行するにしたがって狭くなる。標高は,那珂町鴻巣付近で41m,同町菅谷付近35m,ひたちなか市稲田33m,東部の海岸寄りの東海村照沼31m,ひたちなか市馬渡30m,とやや西高東低の平坦な地形をなす。台地上には大きな川はなく,浅い浸食谷が北西から南東に樹枝状に発達しているにすぎない。古徳沼文洞池(七つ溜(ため))・名平洞(なへいどう)などの溜池が多い。台地面は関東ローム層に覆われ,低生産性の土壌で水利も悪く,開拓が遅れアカマツ・スギ・クヌギ・ナラの平地林が残っていた。江戸期に茶栽培が盛んになり,水戸藩の産業政策などもあって額田茶・大宮茶が普及した。また現在の東海村や那珂町杉を中心に苗木栽培が導入され,耐干性の商品作物として発展した。乏水性台地のため甘藷・落花生などが多く栽培され,第2次大戦中全国に甘藷が飛躍的にのびる基になった白土式甘藷栽培法はこの台地から生まれた。現在もひたちなか市は芋の産地として知られる。干害を受けやすく,昭和30・31・33年と毎年のように干害に悩まされ,灌漑用井戸が数多く掘削されている。昭和6年の農林省による那珂川を水源とする土地利用計画も実現せず,同16年那珂川沿岸農地開発計画が立案されたが戦争で実現しなかった。同21年緊急開拓事業として着工。那珂中部用水の建設により陸田化や既存の水田への灌漑が行われた。ひたちなか市の日立製作所を核とする工場群は,広大な平地林の存在が工場立地に有利な条件となった。台地東部や中央部は水戸・勝田・日立の市街地の拡大の影響で都市化が進んでいる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7038668