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下志津原
【しもしづはら】


(近代)明治中期~昭和20年代の広域地名。千葉・印旛(いんば)両郡のうち。現在の四街道市北西部から佐倉市・八千代市・千葉市の各一部にまたがる一帯。江戸期には六方野(ろつぽうの)と呼ばれた入会秣場の一部で,天保11年この原野の一画に佐倉藩が砲術射場を設置。その後明治6年陸軍砲兵射場として買収が始まり,同19年には陸軍射的学校が設置された。下志津原の名称は軍用地買収の進行に伴って呼ばれるようになったものと思われ,初期の買収地には下志津村の新田部分が多かったものと推定される。明治13年県統計によれば大砲射的場は約124町歩。陸軍射的学校は同30年,現在の四街道市役所・四街道中学校・セイコー光機を含む地域に移転し,陸軍野戦砲兵学校となった。同32年には野戦砲兵連隊が現在の千葉敬愛高校・愛国学園高校(旧千代田村域)の地に設置され,その後,鉄道学校・歩兵学校・飛行学校など陸軍の諸施設・演習場が次々に設置された。軍用地買収は必要に応じて四街道駅を起点としてその西北方に,1~2km幅・延長5kmに及ぶ放射状ベルト型に進められ,現在千葉市域の六方野原・三角(さんかく)原を含めて最終的には2,400町歩にものぼった。第2次大戦後,敗戦に伴う人口の再配置,食糧問題に対応して実施された緊急開拓事業の一環として,軍用地跡に帰農した軍関係や引揚者を主体とする下志津開拓組合が組織された(当初12組合で構成)。演習で荒れた土地の開墾は困難を極めたが,昭和23年以降酪農を導入するなどして開拓を進め,開墾地は昭和20年代末には諸市の新大字・新町に分割された。現在ではかつての軍施設は学校・市役所・公園・陸上自衛隊の施設などに転用され,演習場は畑地・内陸工業地帯に変貌している。なお,四街道市大日緑ケ丘の県道千葉臼井印西線付近には射的学校の射撃練習の標的にした人工の山,大土手(おおどて)山(砲術指導にあたったフランス砲兵大尉ルボンの名をつけてルボン山ともいう)が残っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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