100辞書・辞典一括検索

JLogos

11

南相馬
【みなみそうま】


旧国名:下総

(中世)鎌倉期~室町期に見える広域地名。下総国相馬郡のうち。相馬御厨は千葉常胤が伊勢神宮に寄進してから源氏との抗争を経た後,次男の相馬師胤の所領となり,鎌倉期に入ると御厨内の郷村は島津氏,岩松氏,相馬氏,相馬岡田氏の4つの系統に分かれて伝領されていった。南相馬という名称は相馬岡田氏,岡田胤顕の後家である妙悟が正和4年8月7日に書いた譲状に「みなみそうまのうちいつみのむら」とあるのにはじまって,専照譲状・胤康譲状・胤家譲状・胤重譲状など,相馬岡田氏の伝領関係文書に見え,いつみのむら・かみやなと・ふなと・かなやまがその伝領地であった。中でも康暦3年5月24日の相馬胤繁(重)譲状には「さむまのこほりの内みなみさむま」とあり,相馬郡内に南相馬という地域があったことがわかる。ただし建武元年12月21日の妙蓮譲状(岩松文書/県史料県外)にも「みなみそうま」として,ふち心・てか・ふせが見える。妙蓮は岩松時兼に嫁した相馬義胤の娘,土用御前の孫であり,藤意など3か所はこの岩松氏の伝領地であった。また応永2年のころのものと思われる南相馬村田数注文(相馬文書/県史料県外)に「みなみさうまのふん」として先にあげた村以外に,「わしのやむら・みのわ・おほいのむら・たかやなきのむら・ふちかやのむら・あはのうむら・ますおのむら」が見える。しかし,この時期奥州に移動した相馬氏が現実に当地を支配したのかは不明である。なお文正2年4月8日,平胤弘(相馬氏か)が福満寺に寄進した梵鐘銘に「南相馬郡泉郷柳渡」と見える(県史料金石2)。南相馬の地域は相馬郡(御厨)の南半分にあたり,手賀沼以南,現在の沼南町全域,柏市の一部,鎌ケ谷市の一部にかかる一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7057318