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足柄
【あしがら】


相模国西端部,現在の足柄下郡・足柄上郡一帯の広域地名。「古事記」の景行天皇の条に,「足柄の坂本」とあり,白鹿の神が出た話を載せている。「和名抄」には足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)両郡が見え,もとは足柄郡1つであったのが,のちに上・下に分郡したものとも思われる。郡内には足上に高家・桜井・岡本・伴部(ともべ)・余戸(あまるべ)・駅家(うまや),足下に高田・和戸(やまと)・飯田・垂水(たるみ)・足柄・駅家の計12か郷が見え,古代から平安末期に至る間,東海道を中央から東へ旅する時,現在の静岡県沼津市付近から黄瀬川沿いに北上,竹之下(静岡県駿東郡小山町)を起点におよそ3里(12km)の足柄峠越えの山道を進み,東麓の関(南足柄市)へ達する道筋をとっていた。一見かなりの迂回路と思われるが,山坂が比較的短く,相模に入って大山南麓を東にたどり,当時高座(たかくら)郡海老名(えびな)(のちに大住(おおすみ)郡に移転したが,大住郡の国府の比定地には諸説ある)にあった相模の国府に達しやすかった。江戸期の矢倉沢往還は古東海道にほぼ相当する道筋とも推定される。「日本紀略」桓武天皇の延暦21年5月19日条に「廃相模国足柄途開筥荷途(はこにじ)」とあるが,これは同年の富士山の噴火で足柄越えの道をふさがれたため,応急処置として箱根越えの道を開発したものである。翌22年5月,足柄の道路補修がなるに及び,再び旧路を使用するようになった。「古事記」の倭建命,「万葉集」の高市黒人,「更級日記」の作者,「海道記」や「東関紀行」の作者らは,東国への往復にはきまって足柄山を越えた。このように足柄は重要な峠道であったため,昌泰2年には上野国碓氷坂と同時に足柄坂にも関が設けられた。足柄の関はその後変転を重ね,「枕草子」の「関は」の条には西麓にあったと推定される「横走りの関」の名をあげている。駿河(するが)国駿河郡横走郷(静岡県小山町)に設けられた当関については「兼盛集」に「横走り清見が関のかよひ路に」の一詠がある。しかし,「十六夜日記」の阿仏尼は,箱根越えの道をとっている。鎌倉幕府の権威の確立に伴い,上り・下り8里(32km)の箱根越えが京都からの近道として再認識され,官道となったからである。こうした推移に伴い高座郡海老名にあった国府は大住郡へ移転,さらに余綾(よろき)郡に移され,鎌倉との連絡を密にするようになった。江戸期には東海道の箱根越えが正道だったとはいえ,足柄越えも間道として重視され,箱根と同じく関所が設けられていた。東麓の南足柄市関本の地名はその名残である。また難所での安全を祈願する「関の明神」が祀られている。江戸初期の浅井了意の「東海道名所記」には足柄の明神である地祇(くにつかみ)で夫婦の神の話をのせている。古代にあって関東というのは美濃国不破の関・伊勢国鈴鹿の関以東を意味していた。しかし,時代が下り大和朝廷の勢力が東方に伸びるにつれ,足柄の関や碓氷峠の東方を関東もしくは坂東と呼ぶようになる。吾妻という名称も,東征の折,妃の弟橘比売を走水海(東京湾)で失った倭建命が,帰途足柄の坂で東方を振り返り「吾妻はや」と述懐したところから生じたとされている。このように足柄山(足柄峠・足柄の坂)は旧東海道の要衝であったため,通過する旅人が詠歌や紀行にその名をとどめる機会がすこぶる多かった。「新勅撰集」巻19には藤原良経の「足柄の関路越え行くしののめのひとむらかすむ浮島が原」という歌がある。また足柄山周辺を生活の場とする住民の間からも地名を詠み込んだ恋の歌などが生まれ,「万葉集」巻14には「足柄の彼面此面に刺す罠のかなる間しづみ児ら吾紐解く」「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくもあやし」「足柄(あしかり)の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに児らが言はなくに」などの相聞歌8首を数える。また「足柄の安伎名の山に引こ船の後引かしもよこば来がたに」「足柄の吾を可鶏山の穀の木の吾をかづさねも穀割かずとも」の譬喩歌も見られる。とりわけ東歌にあっては,古く「アシガリ」と呼ぶ方言のあったことと,吉浜・真鶴(まなづる)付近の相模湾沿岸部の湯河原温泉をも包括している点が注目される。つまり古代において足柄は箱根火山群の全体を包括する呼称であったと解するのが妥当で,後世になるに従い箱根山の枕詞として足柄を用いるようになり,さらに東海道筋の難所で富岳大観名勝であるところから歌枕ともなったと考えられる。「万葉集」巻3には別に「鳥総立て足柄山に船木伐り樹に伐り行きつあたら船材を」の歌が見え,ここでは足柄山の樹木が船材として好適だったことを示している。これは「逸文相摸国風土記」に,この山の杉の木で船を造ったところ,よその材で造ったものよりはるかに船足が軽かった。それゆえ足軽山と称するようになったという地名説話と一脈の関連があろう。中世の小説「時秋物語」には後三年の役のとき,新羅三郎義光が兄陸奥守源義家の軍にはせ参じようと左兵衛尉の官を辞し,足柄の関にさしかかった際,あとを慕って来た義光の笙の師豊原時元の遺子時秋に,習い覚えた笙の秘曲を伝授したという話が記され,足柄峠には新羅三郎笛吹石が名所として残されている。また,足柄山の西麓を流れる鮎沢川(黄瀬川の上流)を挟んで,建武2年12月,新田義貞と足利尊氏との間に箱根竹の下合戦が行われ,義貞軍が敗れている(太平記巻14)。ついで観応2年12月には足利直義が佐竹義盛を足柄路に派遣し(赤堀文書/県史資3上‐4116),永享10年9月10日には箱根山合戦で当地も戦乱の地となるなど,度々合戦場となっている。また新羅三郎笛吹石の北東の台上には足柄城址がある。当城は武田氏の侵攻に備えて小田原北条氏が築いた城であるが,天正18年に豊臣秀吉の軍によって落城した。江戸期は箱根越えが正道であったが,それでもなお石亭年彦作歌川国房画の「足柄山峯復仇」のごとき合巻や「足柄山皐月人形」のような常盤津節が作られ,一般庶民にも足柄の名は親しまれた存在であった。




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「角川日本地名大辞典」
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