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大山
【おおやま】


雨降山・阿倍利山・阿夫利山ともいう。丹沢山地の南東部,厚木・伊勢原・秦野(はだの)の3市の境にある山。標高1,245.6m。ピラミッド型をした壮年期の山体は相模平野からよく目立ち,古来農民や漁民の信仰を集め,農業神や海神として信仰の対象となってきた。また,当山は相模湾の沖合いからもはっきりとその先峰を望むことができるため,これを目印として漁場を探したり航路を決定したともいわれる。地質的にはグリーンタフ(緑色凝灰岩)を主な構成要素とする新第三紀中新世の丹沢層群のうち,中部の大山亜層群と上部の煤ケ谷亜層群からなる。東麓の七沢(ななさわ)や日向(ひなた)などではこの岩石を採掘し七沢石・日向石などと称して石垣やかまどの材料として用いてきた。植生ではカシ・スギ・モミ・ヒノキなどの樹林の他,丹沢山地原産の植物としてはオオヤマブシ,オオヤママルバウツギなどがみられる。また興味ある植物としてオトメアオイ・ハルユキノシタなどがある。「あふり」あるいは「あぶり」の山名の由来について「新編相模」には次のように説明されている。「頂上は常に雲霧深くややもすれば大いに雲起こり忽ち雨を降らす,此の雨は山中のみにして他に及ばず,故に土人私雨と称す,雨降山の名は是に因るか」。また「夫木和歌集」には「立よれど雨降山の木の本は頼むかひなくおもほゆるかな」の歌がみられる。さらに源実朝は「金槐和歌集」のなかで「ときによりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ」と歌っているが,これも当山にあって晴雨をつかさどる倶利迦羅竜王に捧げられたといわれる。こうしたことから「あふり」とは大山が高く大きくそびえ常に雲を呼び,山中に雨を降らせるところからの名と考えられてきた。また,これとは別にアイヌ語のアヌプリ(偉大なる山の意味)が転じて「あふり」あるいは「あぶり」となったともいわれ,さらに「あふり」あるいは「あぶり」は原始宗教における神の所為としての「あらぶる」が転じたものとの説もある。また,古代にはしかばねを山に葬る(はふる=ほうむるの古語)習慣があったことから,この山を「はふり山」と呼ぶようになり,それが「あふり山」に転じたともいう。地元の農民たちは昔から天気予察の指標として,また雨乞いに霊験のある山として当山に関心を寄せてきた。現在の大山という山名は山頂に大山祇神を祀るところから起こった名という。大山の開山は天平勝宝7年,華厳宗の祖,良弁僧正によると伝え,山頂に祀られた石尊大権現と山腹の大山寺を中心に真言密教の修験道場となり,関東有数の修験者の寺として広く知られるようになった。大山寺は一時的に荒廃した時期もあったが,永仁の頃に願行によって諸堂が再興され不動明王(国重文)が祀られた。江戸期になると徳川家康が行った山岳行場に対する一大刷新(慶長10年)の影響を受けて多くの修験者たちが山をおりた。これらの修験者は大山(現在の門前町)や蓑毛(秦野市にある旧門前町)に定住し門前町の原型を形成した。庶民の間にも当山に対する信仰は深まり,豊作祈願・無病息災・家内安全・防災招福・商売繁盛などの祈願に当山を訪れる者も増加した。農民や町人(特に水に関係の深い仕事である火消し・酒屋,また御神体の刀に関係する大工・石工・板前など)も商売繁盛の祈願や相互扶助などの目的で大山信仰を利用し,講を組織して参拝を行った。当時の大山詣の様子は清元の「山帰り」や落語の「百人坊主」などのなかにも描かれている。明治期に入って神仏分離令によって大山寺は破却され,新たに大山祇命を祀った阿夫利神社がたてられた。山頂には本殿を置き,大山寺のあった中腹には拝殿が設けられ,初代祠官となった権田直助は神社としての整備や祭祀の厳修を行った。こうして山頂には阿夫利神社奥ノ院(本殿)と小天狗・大天狗の2社が祀られた表参道の中腹には拝殿である下社,その下方,女坂の中ほどに関東三大不動の1つの大山不動尊を祀る大山寺が置かれた。大山詣は,旧暦の頃は6月27日から7月17日までの20日間の開山期(季)が最もにぎわったが,新暦では7月27日から8月17日までの夏山大祭,4月の春山祭,8月末の秋季祭,10月から11月にかけての紅葉まつりなどが特ににぎわう。当山への参拝経路は大山街道の名で呼ばれ,大山を中心に放射状に広がり,中でも最も主要な経路とされたのは田村通大山街道で,これは東海道四ツ谷から一之宮,田村の渡しを経て伊勢原へ抜けそこから大山へ至るものである。この道のほか,青山道・大山街道(矢倉沢往還),柏尾通大山街道なども主要な道筋として知られ,府中道・八王子道・羽根尾道・六本木道なども利用された。これらの街道を通って大山にもうでる大山講の人々のために南東面の山麓に門前町が形成された。門前町は慶長の改革で山をおりた修験者たちが開いたもので,先導師あるいは御師の家々が立ち並び,大山講の人々の宿泊所になっていた。先導師とは大山に参拝する大山講の人々の宿泊・案内・各種斡旋業務を行っていた人々をいう。先導師の家は大山のほか,蓑毛にも3軒ほどあった。蓑毛は小田原以西からの登山経路をとる場合や,富士登山の帰途,大山に登る場合などに利用されたが,現在では宿坊としての営業はなされていない。大山の門前町は現在,一般観光客のための約60軒の旅館街となっている。現在も信仰登山の対象として訪れる人が多い。大山観光電鉄のケーブルカーが山麓の追分駅から中腹の下社まで結んでいる。登山路はこの表参道のほかに南西のヤビツ峠から,南の蓑毛から,東の日向薬師から,北東の広沢寺から,西の諸戸からのものなど数多い。




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「角川日本地名大辞典」
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