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亀ケ谷
【かめがやつ】


現在の鎌倉市扇ガ谷地域の古称。治承4年源頼朝が鎌倉に入る以前からの地名。「かめがへ」「かめがいのやつ」「かめがや」ともいう。「玉舟和尚鎌倉記」は「梅が谷・ササメが谷・扇ノ谷・雪ノ下谷・べ子ノ谷・花ノ谷」とともに鎌倉七谷の1つだと伝える。地名は近くにある鶴岡の対語としてつけられたと思われるが,「空華文集」では隆起した山の形が亀に似ているからだといい,「寿福寺略記并諸寮地名記」は亀谷山は源氏山のことだという。「吾妻鏡」治承4年10月7日条に「左典廐〈源義朝〉之亀谷御旧跡」とあるのが谷名の初見。以下「吾妻鏡」には次のことがらが認められる。養和元年3月1日,頼朝の亡母忌を土屋次郎義清の「亀谷堂」で営んだ。亀谷堂と称するのは,このほか岡崎四郎義実が義朝追福のために建立したもの(義清の亀谷堂と同じか)と,中原親能(寂念)・興実の持仏堂(亀谷堂)との3つがある。正治元年5月7日,頼朝の娘乙姫の病気を診察にきた針博士丹波時長が中原親能の「亀谷家」から畠山重忠亭に移り,同年6月30日乙姫が没すると遺骸を親能の「亀谷堂」の傍らに葬った。正治2年閏2月12日,政子の祈願で寿福寺を建立するため「亀谷之地」を点じて翌日から造営が始められた。建仁2年正月29日,将軍頼家が親能の「亀谷宅」で蹴鞠に興じようとして政子に諫止された。同年8月24日,亀谷辺りが騒動し,同年12月19日には将軍頼家が同じく亀谷辺りで落馬し,古井戸に落ちた。安貞元年2月21日,亀谷辺りが焼亡し,寛元元年正月9日には足利家氏の亀谷亭と人家を焼失した。これよりさきの仁治2年10月22日,半更に及んで亀谷辺りがにわかに騒動した。建長3年11月13日,将軍頼嗣の生母が亀谷に新造した亭に入御した。この年12月3日には鎌倉中の小町屋に関する掟が出され,小町屋を設置してもよいとされた七か所,大町・小町・米町・和賀江・大倉辻・気和飛坂山上とともに亀谷辻が含まれており,武蔵大路を擁する当地のにぎわいぶりがしられる。建長4年3月21日,将軍職を廃された頼嗣は幕府から佐介の北条盛時亭に移り,その若君は生母の亀谷亭に入御。同年5月19日亀谷泉谷にあった二条教定亭に方違していた将軍宗尊親王が7月9日に幕府へ帰っている。文応元年4月29日,鎌倉中の大火で亀谷の人屋も焼け,翌弘長元年6月22日には三浦氏の残党である義村の子良賢を亀谷石切谷で生け捕った。文永2年6月10日,甚雨のため亀谷泉谷で山崩れがあり,多くの人馬が圧死した。なお,「金沢文庫古文書」の氏名未詳書状に「かめかやつ」の名がみえ,その中の「鎌倉亀谷」は寿福寺・清凉寺などの寺名を指す場合もあった。貞和5年と推定される年未詳の4月28日の素安書状では,法泉寺の敷地となる「亀谷常光谷地」の存在がわかり(証菩提寺文書/県史資3上-4037),貞治3年2月日の大友氏時所領所職注進状案には「鎌倉亀谷地壱所〈先祖墓所・宿所地等〉」と見え,当地に大友氏の屋敷や墓所があったこともしられ(大友文書/同前4492),永徳3年7月18日の大友親世所領所職注文案には「鎌倉亀谷藤谷敷地一所」とある(同前4926)。ちなみに「空華集」に詠まれている漢詩中に「亀谷草堂」「亀谷水」などとあるのは,いずれも寿福寺のことで地名ではない。文明18年初冬に鎌倉を訪れた「廻国雑記」の作者道興准后は「鎌倉中かなたこなた順見し侍りて,先やつやつを人に尋侍り,亀がゐのやつにてよめる」として「幾千とせ鶴かをかへに伴ひて よはひあらそふ亀がゐのやつ」の詠一首をのこしている(群書18)。この谷にはかつて武家の亭宅や多くの仏閣があったが,現在は廃絶して分枝した谷名として残り,のちには扇谷の小字ともなった。また,仏師や大工などの工匠も住んでいた。亀谷の呼称が徐々に廃れ,扇谷の名がこれに変わるようになったのは,「新編相模」によると「管領上杉定正爰に住し,世に扇谷殿と称せられ」てからのことだと伝える。しかし,享保2年秋に鎌倉を訪れた太宰春台は「湘中紀行」の中で「鶴岡茂其松柏兮,阻亀谷之崎嶇」と記していて,亀谷の地名は健在である。現在は,わずかに亀ケ谷切通と寿福寺の山号「亀谷山」に名をとどめている。




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「角川日本地名大辞典」
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