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相模野台地
【さがみのだいち】


相模原台地ともいう。相模川左岸に広がる南北約40km,東西約8kmの広大な台地。津久井郡城山町・相模原市・座間市・大和(やまと)市・綾瀬市・茅ケ崎市・藤沢市の6市1町にまたがる。当台地は城山町川尻を扇頂(160m)とする扇状地・河成段丘で,藤沢市長後付近で34m,台地南端で50mの高度をもつ。台地の東縁は多摩丘陵によって限られる。座間市・相模原市よりも北の部分は,ほとんど開析されず平坦地が広がるが,南半部は境川・目久尻川・引地川などによる開析が進み,起伏に富む。当台地は高度によって上位から,座間丘陵,高座(こうざ)丘陵,相模原面,田名原面,陽原(みなはら)面の5段に区分される。座間丘陵・高座丘陵はかつての平坦な台地面が浸食されて相模原面上に突出する台地南半部の丘陵地である。相模原面は台地の主体をなす起伏のほとんどない平坦地で,相模原・座間・大和・綾瀬・藤沢の各市域の大部分がこの上に位置する。田名原面は相模原市田名付近を中心に分布し,相模原面とは数十mの崖をもって接する。陽原面も相模原市田名の陽原付近に局地的に分布する平坦面で,田名原面とは10m前後の崖で境される。当台地は相模川河床との比高が50~70m近くもあり,そのため地下水位が高く水利条件に恵まれず,表面は厚い火山灰と礫層に覆われ地味もやせていたため,台地を刻む河谷中や陽原面・田名原面の水利の良い場所が畑地として古くから利用されていた。他の場所の利用・開発は後れていた。当台地の開発は,延宝3年の江戸の商人相模屋助右衛門による上矢部新田の開田に始まる。その後,元禄12年の大沼(178ha),享保8年の溝境分(100ha),文政元年の淵野辺(65ha)の各新田開発が行われたが,天保14年の原清兵衛による清兵衛新田(142ha)によって新田開発は一応終わる。このうち実際に開発されたのは大沼・淵野辺・清兵衛の3新田で,残りは一部分が開墾されたにとどまり,多くの原野が残された。明治期以降になると新開と呼ばれる小規模な新田開発が行われ,明治3年の橋本新開や明治21年の中村新開が開かれた。この時期には養蚕業の隆盛とともに,台地上の畑地が次々と桑畑に転換され,昭和5年の養蚕業のピークまで続いた。しかし水利条件の悪さは改善されず,そこで昭和13年の相模川総合利水計画の決定とともに相模川の取水計画が開始され,台地上の畑地化が進められた。昭和22年の相模川河川統制事業による多目的ダム(相模ダム・津久井ダム)の完成によって翌年以降当台地の畑地灌漑事業が始まり,昭和32年に東西送水幹線が完成し,相模原市から藤沢市にかけての農地2,700haが涵養された。しかし,高度経済成長期に農地の宅地や工場用地への転換が激増したため,これらの施設は現在遊休化している。一方,現在の当台地は,住宅地・内陸工業地帯として発展しているが,これは昭和12年以降の軍都建設(陸軍造兵廠の設置)による民間軍需工場の進出がそのもととなっている。その後,軍都計画の一環として昭和14年に県の相模原都市建設土地区画整理事業による1,600ha余の宅地造成が行われたり,相模原市制施行後の工場誘致により内陸工業地帯が形成され,現在の姿が整備されていった。現在,麻溝台・橋本・峡の原(はけのはら)・大山・橋本機械金属・南橋本・小山・田名の各工業団地が立地し,主として電気機械・輸送機などの生産を行っている。台地上には旧軍用施設が多く,そのほとんどは第2次大戦後アメリカ軍施設として利用されていたが,返還後の広大な跡地利用が市街地再開発とあいまって問題となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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