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七里ガ浜
【しちりがはま】


七里ケ浜とも書き,「ガ」と「ケ」が両用される。鎌倉市稲村ガ崎から七里ガ浜・腰越にかけての浜。七里灘・七里浦・しちりばまともいった。稲村ケ崎から小動(こゆるぎ)崎までの相模湾に面する砂浜約2,900mをさす。「鎌倉志」「新編相模」は,その道程が6町をもって1里とする(ふつう1里は36町)。関東道の距離で7里あるから名づけられたとするが,通常の1町60間,約109mを基準にすると数字は合わないことになる。天保6年の紀行文「四親草(よしみぐさ)」は「此磯辺を七里か浜といへるは,此浜にかきりて六町一里也,唐数なればもろこしか原といふ成へし」と,中国風の数え方だという見解を示す。「金兼稿」は,この海浜を歩くのは平地の7里を歩くのと同じくらい難儀するので名づけられたというが7里にはもともと「長い道のり」の意味があるので,九十九里浜などと同様,長く続く砂浜の別称と思われる。浜の名は今のところ鎌倉期の史料にはみえず,「日用工夫略集」応安6年11月25日条に,義堂周信が観中蔵主を送ってこの浜に至ったとある記事が,初見とみられる。浜の一部は金洗沢(かねあらいさわ)とよばれていたらしく,承久3年源光行が金洗沢で梟首されようとして許され,同じく嘉禄2年には賊徒忍寂坊の首級をここに懸けた話を「吾妻鏡」が伝えている。「鎌倉大草紙」(群書20)は応永17年謀反をおこした新田氏の子孫を七里ガ浜で誅殺したことや,宝徳2年4月,鎌倉公方足利成氏と長尾景仲がこの浜で合戦した際,防戦した小山一族80余人が戦死したことを記している。「鎌倉志」に「今も太刀・刀の折,白骨など,砂に雑て有りと云ふ」とあるように,昔から古戦場であり,処刑場でもあった。文明18年10月に鎌倉を訪れた万里集九の「梅花無尽蔵」(五山文学新集6)にも七里ガ浜の名がみえる。なお,この浜の砂は鉄砂(くろがねすな)(砂鉄)を多く含んでいたことを江戸期の諸書が伝えている。例えば「鎌倉志」は「此浜に鉄砂あり,黒き事漆の如し,極細にして,いさゝかも余の砂を不交,目に映ずれば輝て銀の如し,庖丁・小刀等をみがくに佳也」といい,享保2年秋に鎌倉を遊覧した太宰春台も「湘中紀行」の中で同様に述べている。今も多くの砂鉄が認められる。海岸線にほぼ沿って江ノ島電鉄が通り,浜の中ほどに七里ケ浜駅がある。駅の東側にはその地名由来が日蓮の竜口法難にかかわる行合(ゆきあい)川が流出し,西側一帯は金洗沢となっている。東西に広がる海岸線の北側が,高度30~50mの丘陵によってさえぎられ,海岸は冬も温暖な環境に恵まれている。そのため,南向きの山腹斜面に療養所や別荘が明治期から建てられた。京浜地区への交通が整備されるにつれ,別荘地から一般住宅地への開発が進み,江ノ電の七里ケ浜駅と稲村ケ崎駅背後の丘陵には大規模な住宅団地が造成されている。浜辺から望む富士の景勝の地として知られ,七里ケ浜沖で遭難した逗子開成中学校生を悼んで作られた「真白き富士の嶺,緑の江の島」の歌がその風光を伝えている。海は深く,海水浴には適しないが,波が荒いため四時サーフィンを楽しむ人が多い。海辺に西田幾多郎の「七里ケ浜夕日漂ふ波の上に伊豆の山々果し知らずも」の歌碑がたつ。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7067189