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比企谷
【ひきがやつ】


鎌倉市大町の妙本寺とその周辺の谷名。源頼朝の乳母比企尼がこの地に卜居したことから名づけられたという。「吾妻鏡」寿永元年7月12日条によれば,頼朝夫人北条政子が産気づいて「比企谷殿」に渡御したとある。この屋敷は8月12日に生まれた頼家の乳母夫比企能員(比企尼の甥)の屋敷で,建仁3年9月能員が北条時政の名越館で誘殺されたあと,比企一族はこの屋敷で頼家の子一幡とともに滅亡した(吾妻鏡)。同書承元3年5月15日条によると,この地は「山水納凉之地」として知られていたようで源実朝が「女房駿河局比企谷家」に渡御している。また比企能員の娘讃岐局が大蛇と化して比企谷土中にすみ,北条政村の娘に災いしたという(吾妻鏡文応元年10月15日条)。讃岐局を祀るという蛇苦止堂が今も建っている。「吾妻鏡」には建長2年12月11日条・正嘉元年8月18日条・文永3年4月21日条にもこの谷に関する記事がある。「西本願寺本万葉集」の奥書に「寛元4年12月22日於相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊,以治定本書写畢」と見え,当地に新釈迦堂があったことが知られる(大日料5‐24)。弘安6年12月11日の関東下知状(相模文書/県史資2-964)には「比企谷新釈迦堂供僧職事」と見え,新釈迦堂の供僧職に厳智阿闍梨が補任されている。また,文和元年11月15日の足利尊氏御教書(妙本寺文書/同前3上-4202),応永22年12月20日の足利持氏御教書でも「比企谷新釈迦堂供僧職」が補任されている。元亨2年2月29日の藤原行教譲状には「鎌倉比企谷屋地事」とあり,嫡子貞行に譲られている(田代文書)。応永29年足利持氏に嫌疑をかけられた佐竹上総上道常元が比企谷法花堂で自害した(神明鏡・喜連川判鑑など/続群29上・5上)。天文3年6月3日北条氏綱が比企谷で酒宴を催し,同9年11月23日北条氏康はこの谷に在陣している(快元僧都記/神道大系)。このほか比企谷には岩蔵寺・田代観音堂・泰雲寺などがあったと伝えられる(頬焼阿弥陀縁起絵巻・鎌倉志・新編相模)。なお弘治2年と推定される3月9日の里見義弘制札(妙本寺文書/相文4)によると比企谷は「曳谷」とも書かれたらしい。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7068685