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由比ガ浜
【ゆいがはま】


由比ケ浜とも書き,「ガ」と「ケ」が両用される。相模湾に面した稲村ケ崎から材木座・飯島崎までの海岸を総称する海浜。古くは由井・湯井とも書かれ,前浜(吾妻鏡)ともいう。細かくは稲瀬川付近を坂ノ下海岸,滑川から西の中央部を由比ガ浜,東を材木座海岸とよんでいる。名の由来は由比郷内に含まれていたからだとか,相互に助けあう結(ゆい)にちなむともいわれる。現在では湘南屈指の海水浴場として名高いが,鎌倉期は小笠懸(こがさがけ)や流鏑馬(やぶさめ)などを催して武技の鍛練所として使われたり,歴代の鎌倉幕府征夷大将軍が,伊豆・箱根に参詣する際にはこの浜の潮で身を清めるのを恒例としていたとも伝える。鎌倉武士にとって,一種の聖域であった。また当地は戦闘の場でもあった。治承4年稲瀬川辺りから小坪(逗子(ずし)市)にかけて畠山重忠の軍兵と三浦勢が戦ったのをはじめ,文治2年には源義経の妾静が生んだ赤子が捨てられ,建保元年の和田義盛の乱では敗れた義盛以下の和田一族がここで滅亡し,浜に仮屋を構えて首実検が行われた。その3年後の建保4年のこと,将軍源実朝は陳和卿に命じ大船を造らせ,この浜から宋国に渡ろうとしたが失敗している。元弘3年新田義貞の鎌倉攻めの際も,この浜に多くの屍が埋められた。昭和28年から3回にわたり浜から一の鳥居にかけて発掘され,大小32か所の穴に埋められた枯骨が発見されている。古くから海水浴場として知られ,明治20年に設置されたサナトリウム鎌倉海浜院に逗留した山岡謙介が著した「由比浜随遊私記」に,当時の海水浴のありさまが詳しく述べられている。また,谷崎潤一郎の「痴人の愛」にも登場し,当時の海岸の様子をしのばせる。昭和初期には「海の銀座」の名も生まれ,海の女王のコンテストを中心として鎌倉カーニバルは年間最高の人出であった。カーニバルは第2次大戦後復活したが,交通渋滞を起こすことなどから中止されている。今日では,砂浜の背後を国道134号(湘南遊歩道路)が通り,砂浜や海水の汚染が目立つなど,昔日の風光は失われているが,由比ケ浜海水浴場として休日には多くの人出でにぎわう。特に,元旦の未明から日の出にかけては,初詣をすませて初日の出を拝もうとする人々で東の材木座海岸とともに混雑をきわめる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7069546