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加納
【かのう】


旧国名:越後

(中世)鎌倉期から見える広域地名。越後国岩船郡小泉荘のうち。地名は小泉荘本庄に対する加納田に由来し,色部条・牛屋条・粟島を含む。建長7年10月24日の関東下知状案によれば,荒河保との境界相論に際し,小泉荘牛屋条地頭色部公長は仁平3年12月28日の立券状を証拠に提出している(米沢色部文書)。小泉荘加納は仁平3年までに荒川の北岸に及び,公領との境を明確にするため立券状が作成されたとみられる。正応元年12月2日の関東下知状案に「建永之比,本庄・加納地頭各別為請所以来,于今無相違」とあり,鎌倉初期,秩父季長は小泉荘地頭に補せられ,季長は建永年間頃に嫡子行長に小泉荘本庄,次子為長に加納を譲ったとみられる(同前)。当時,加納の地域は大半が大きな潟(岩船潟)と野地で,潟には助淵川・石川・百川や荒川の分流も流れ込んでいた。神林村牧目の東側に小色部と称する場所があり,西側に館跡があることから,牧目が為長の本拠とみられる。嘉禄3年4月9日の鎌倉将軍家下文で,色部公長は父為長から譲与された「小泉庄加納内色部・粟島」の地頭職を安堵されている(反町色部文書)。公長は,文永7年8月25日色部条を惣領忠長に,粟島を嫡孫長信へ,牛屋条を東西に分けて長茂と氏長へ譲り(米沢古案記録草案),氏長は宿田氏,長茂は牛屋氏の祖となった。色部条・粟島はその後も代々色部惣領に伝領された。この間,正応元年には小泉荘領家一条侍従二位家の雑掌と加納方三か村(色部・牛屋・粟島)の地頭忠長・長茂・氏長の間に相論が起き(米沢色部文書),永仁4年4月20日には加納方2万2,555束刈の地の下地中分が行われた(同前)。南北朝期から室町期にかけて,色部惣領の所領は「加納方色部・岩船并粟島之地頭職」であったが(反町色部文書),文明15年12月13日の色部朝長譲状に当知行地として惣領分・宿田分・浦分・牛屋役が記され,この時期には加納全域が惣領の支配下となっていた(光西寺所蔵文書)。現在の神林村のほぼ全域,粟島浦村と村上市の一部が含まれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7071815