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刈谷田川
【かりやたがわ】


大河津(おおこうづ)分水の4km下流で信濃川に注ぐ1級河川。流長52.9km,流域面積240.6km(^2)。県境の守門(すもん)岳に源を発し,栃尾盆地で来伝川・西谷川・塩谷川を集めつつ蛇行して西流し,東山山地を横切って見附市で新潟平野に流出する。南蒲原郡中之島村・栄町と見附市境界を北流して栄町鬼木付近で信濃川に合流する。「越後名寄」には,小川通または出雲田庄今町村と中ノ島村の中間を流れるので今町川ともいい,今町まで川舟がさかのぼり,周辺で産する小川苧と呼ぶ越後名物の麻苧を積み出した。また今町上流10町余で毎年5月に灌漑用の堰堤を築いたとある。川幅30間を高さ5尺上の歩み5間の堤を両岸から土俵で20間分築いたもの,国中でも稀也と記す。見附市街から下流では曲流蛇行が顕著で,自然堤防上には集落が発達する。左岸は旧八丁潟・中之島などの低湿帯が,右岸には栄町西部の低湿地が広がる。「正保国絵図」には沿岸一帯は沼沢地に囲まれた水郷に描かれている。戦前は河口の鬼木・泉新田・今井などの水田は冬季一面に湛水し水郷と化した。今も水倉をもつ家や,囲堤(かこいづつみ)をもつ輪中集落が残存する。河川沿岸は洪水による破堤が頻発,明治以降40回を超える水害に見舞われている。このため大正5年頃より栄町低湿地排水専用路である貝喰川の改修工事が始まり,大堰江水利組合による用排水工事も進捗,昭和43年頃からは,刈谷田川改修が始まり,川幅の拡幅や蛇行部の直線化が進み,洪水の除去に成功。昭和56年には,上流に刈谷田川ダムが建設され,栃尾市・見附市の上水道・工業用水が確保されるとともに,沿線4,000haの灌漑用水が供給され,かつての水腐地も美田に変貌した。幕末から明治末までは刈谷田川舟運が盛んで,西川の地蔵堂河岸から海産物・米・日用雑貨などが運送され,今町・見附河岸に陸揚げされ,一部は八十里越えで会津御蔵入郷(あいづおくらいりごう)(南会津・横田)に送られていた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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