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本庄
【ほんじょう】


旧国名:越後

(中世)鎌倉期から見える広域地名。越後国岩船郡小泉荘のうち。地名は小泉荘の本荘に由来し,現在の岩船を除く村上市の大部分と朝日村・山北町が含まれる。正応元年12月2日の関東下知状案に「建応之比,本庄・加納地頭各別為請所以来,于今無相違」とあり,鎌倉初期,秩父季長は小泉荘地頭に補せられ,季長は建応年間頃に嫡子行長に小泉本荘,次子為長に加納を譲ったとみられる(米沢色部文書)。文永7年10月27日小泉(本庄)定長は孫長俊に「小泉本庄柏尾条地頭職半分」を譲り,同8年12月23日長俊は鎌倉幕府の安堵を得ている(反町大見水原文書)。文保3年3月11日の鎌倉幕府奉行三名連署奉書には「小泉本庄預所道守」が見える(反町色部文書)。また,弘安9年8月日の河村秀通坪付写に「限北本庄境」と見え,小泉本庄は単に本庄とも呼ばれている(山形大中条文書)。本庄氏からは鮎川・小河・大川・立島などの諸氏が分立し,これらの本庄一族が当地を支配した。下って戦国期に入ると,本庄は臥牛山とその山麓周辺を指す地名となった。天文21年6月21日の黒川実氏書状案に「剰彼以刷,伊達之人衆本庄・鮎川要害□之条,彼面々大宝寺へ退去」と見え,天文8年伊達時宗丸の上杉入嗣に反対する本庄・鮎川両氏は伊達氏・中条氏の軍勢により本庄城を攻略され,本庄房長は大宝寺に逃れた。これに乗じ本庄氏の被官小河長資は本庄城を乗っ取ったが,同20年房長の子繁長が本庄の要害を取戻した(反町大輪寺文書)。永禄11年3月13日本庄繁長は武田信玄に内通し上杉輝虎に抗した(寸金雑録/越佐史料)。輝虎は11月7日から本庄城を攻囲し(歴代古案/同前),翌年2月伊達氏・蘆名氏の仲介で繁長は輝虎と和睦し,嫡子顕長を質子として春日山に送った。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7077905