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境川
【さかいがわ】


下新川(しもにいかわ)郡朝日(あさひ)町と新潟県青海(おうみ)町との県境を流れる川。堺川とも書く。流長約9.2km。白鳥山・犬ケ岳などを源流とする大平(だいら)川が大平で新潟県内の上路(あげろ)川を合して境川となる。境川の名は古く「令義解」に朝集使の駅馬使用許可区域の「北陸道神済以北」(類聚三代格にも同様の記載あり)の神済(かんのわたり)を注して「神済は越中と越後の界河を謂う也」とあるのが初出で北陸道の遠国と中国を分かつ重要な地点であったことがわかる。康和年間の「堀河百首」に顕季の「舟もなく岩波たかきさかひ川水まさりなば人もかよはじ」とあるのもこの川のことであろう。下って「太平記理尽鈔」には建武2年名越(なごや)時兼が境川に出て,向川を越えて親不知(おやしらず)に出撃したことを記す。また准后道興の「廻国雑記」に「宮崎を立ちて,さかい川,たもの木,さかはさみ」(大日古/県史中),永正15年の「頤神軒存奭算用状」に「二百文 さかい川のせき」(同前)などと見え,次いで「北越軍談」に天正15年上杉景虎の軍が「境川の辺に到り」(上杉資料集/県史中)とあるのをはじめ同18年の条にも見えるなど,戦国期にはしばしば越中・越後両国勢の戦乱攻防の場であった。謡曲「山姥」は境川の上流から越後上路へ越える山道を舞台としているが,この道が越中から信濃への近道であった。佐々成政が天正12年佐良佐良越えした間道もこの上路越えのルートであったとする説が「拾纂名言記」その他加賀藩側の諸書に散見する。江戸期にはいり,加賀藩主前田利常は境川水源の村に百姓5人を住まわせ,鉄砲5挺を与えて国境警固に当たらせたという。奥山廻役はまず境川をさかのぼって,源頭の下駒三山を検分するのが例であった。江戸期を通じ境村に関所が置かれ,境川には橋を設けず歩(かち)渡りで,藩主の通行時には仮舟橋を架し,洪水時には舟を出すしきたりであった。明治11年,明治天皇の北陸巡幸を期に石川・新潟両県共同で木橋を架設し,その後しばしば洪水のため流出したが,そのつど復旧,現在は国道8号が通っている。昭和28年境川砂防工事の際,アンモナイトの化石(菊石)が発見された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7081528