100辞書・辞典一括検索

JLogos

13

辟田川
【さきたがわ】


「万葉集」巻19に歌われた川名。天平勝宝2年3月9日、大伴家持は「鸕を潜くる歌」と題して長歌1首・短歌2首を作った。長歌および反歌1首目は「辟田河」「辟田乃河」,反歌2首目は「左伎多河」と表記。「春されば花のみにほふ あしひきの山下響み 落ち激ち流る辟田の河の瀬に鮎子さ走る」と詠じて,その川に「鵜飼伴なへ 篝さし なづさひ」徒漁するさまを歌い,反歌では「年のはに鮎し走らば辟田川鸕八つ潜けて川瀬尋ねむ」と歌った。辟田川の所在は不明で,古来諸説錯綜している。「楢葉越の枝折」「越中万葉遺事」「万葉越路廼栞」などは,二上(ふたがみ)山の北側西田(さいだ)を流れる泉川で,サイダはサキタの音便によって生じた地名であるという。サキタ・サイダの転化は自然であるが,あまりにも川が小さく,鮎が多数さかのぼり鵜漁をする川としては不適当である。鴻巣盛広は「猥りに推断を下すべきではない」と慎重に構えながら「むしろ氷見(ひみ)町地方の上庄(かみしよう)川・余川(よかわ)川などのいずれかを古は辟田川といったのではあるまいか」と仮想している(北陸万葉集古蹟研究)。また黒川総三は,二上山中から発し,伏木国分地内を流れて富山湾に注ぐ加古川を辟田川に擬し,福田美楯および杉木有一は小矢部(おやべ)川支流の子撫(こなぜ)川に擬する説(越中国誌)を立て,和田徳一がこれを祖述した。子撫川沿岸にサキタという小字があったといわれ,開田(さきた)姓の家も現存することが同地の稗田菫平から報告されている。子撫川は鮎もさかのぼる渓流で,万葉歌の趣と合致するが,なお確証を欠く。国府からやや遠過ぎる点も子撫川説の難点である。泉川・加古川ならば射水(いみず)郡(現高岡市),子撫川ならば礪波(となみ)郡(現小矢部(おやべ)市)である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7081553