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放生津浦
【ほうじょうづうら】


新湊(しんみなと)市の富山湾岸一帯,古くは奈呉(なご)の浦と呼ばれた。中世にはここに越中守護所が置かれた。徳治元年豪商本阿が持舟津軽20艘のうち1艘を略奪されて訴え,元応2年勝訴するという事件があった。また足利義材(義稙)が明応2年から5年間居住し,文人の往来が多かった。港町として繁栄,海中出現伝説をもつ仏像が多い。越中の中心が富山・高岡に移ったため放生津は漁業の町となった。江戸初期,加賀藩主に金鯛を献上し,能登(のと)岬から下新川(しもにいかわ)郡宮崎(みやざき)に至る地先釣漁の特権を得,「釣りや」と称する漁師が多く,漁法は引網・手繰網・台網と発展して,地曳網漁も行われ,放生津六軒問屋の四十物(あいもの)屋も出現した。また放生津浦には北前(きたまえ)船主も多く,礪波(となみ)・射水(いみず)郡の蔵米を大坂に回送していたが,明治以降はもっぱら漁港として北洋漁業の基地に転じ,明治末期からは遠洋漁業にも進出した。現在漁業はかつての盛況はなく,富山・高岡両市や工業地帯への通勤が多くなっている。海岸は土砂を運んできた庄(しよう)川・小矢部(おやべ)川の上流にダムができたため,日本海の荒波の浸食がひどくなり,テトラポットなどで護岸をしている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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