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手取川
【てどりがわ】


白山大汝(おおなんじ)峰を水源とし,美川町で日本海に注ぐ県下最長の1級河川。流長65.65km。上流地域を牛首川と呼び,大汝峰の西に発する湯の谷川と南竜ケ馬場を水源とする柳谷川が市ノ瀬の東で合して北西に流れ,途中,宮谷川・大杉谷川などを,また白峰(しらみね)村白峰から北流して大道谷川・赤谷川などを合わせる。吉野谷村木滑新(きなめりしん)付近で尾添(おぞう)川と合流,手取川となり,北流して大日(だいにち)川・直海谷(のうみだに)川を合わせて鶴来(つるぎ)町に達する。鶴来から手取川扇状地を西流して美川で日本海に注ぐ。集水地帯が貯水力に乏しく,流域には手取統と呼ばれる後期中生代層が分布,崩壊しやすい砂岩・礫岩・頁岩を含むため,古来暴れ川で知られた。天正5年,能登を占領して南下を目指す上杉謙信が「賀州湊川迄取越」,これに対抗して,北国制圧を目指す織田信長も,柴田勝家に羽柴秀吉・前田利家らを従わせて加賀出兵を命じた。「信長公記」によれば「賀州へ乱入,添川(湊川カ)・手取川打越,小松村・本折村・阿多賀・富樫所々焼払在陣也」と見える。次いで天正8年「閏三月九日,柴田修理亮加州へ乱入,添川(湊川カ)・手取川打越,宮之腰に在陣」とある。手取川は古代の比楽(ひら)河に相当する。ただし手取川本流は河道の変遷が激しく,正和元年と推定される白山宮水引神人沙汰進分注文案(三宮古記/白山史料集)に「河ヨリ南方……福冨」と見え,鎌倉末期頃は現在の流路よりかなり北方となる。「三州志」では現在の石川郡山島用水を,かつての本流河道とみる。「信長公記」でも湊川・手取川を並記しており,また正保3年の「三州輿地図」の添書には「水鳥村より粟生まで手取川二筋」と見え(加越能三州道程記),「金城三河考」でも「今湊(川)は比楽河に非ず,寿永の頃より別に比楽河の上流より岐れ,能美(のみ)郡のかなたへ新に一河をなす」とある。「川北村史」は,現流の手取川は弥生~古墳時代の「古手取川」とし,飛鳥期~平安期は比楽河であった北川の比良(ひら)川水系が,平安後期~鎌倉期には大慶寺川が本流,戦国期になって北川が本流に復活,それに伴い「古手取川」も水勢を増し,湊川(今湊川)は復活し始めた古手取川で,藩政前期まで南川(湊川)と北川に分流していたと論じている。面積に比べて灌漑面積の広い下流域では七ケ用水や宮竹用水などの用水路が完備し,渇水時には給水制限を徹底する番水と呼ばれる水利慣行がなされてきたが,昭和43年農林省によって手取川支流大日川に大日川ダムが,昭和54年手取川本流に手取川ダムが完成,水利・発電・上水道・防災などに大きな効果が期待されている。中流域の鳥越(とりごえ)村釜清水(かましみず)付近より上流7kmにわたって手取峡谷があり県立公園に指定。黄門橋・不老橋付近では流紋岩や凝灰岩が浸食された甌穴が観察される。黄門橋付近では約30mの絶壁をなし,この辺から鶴来町にかけて河岸段丘が発達する。手取川の場合,両岸に同時に形成されず,左岸または右岸にだけ見られることが多く,鶴来町中島~白山(しらやま)町では右岸にのみ6段の段丘がみられる。段丘面は明治初年まで鶴来町のタバコ産業の基盤となり,その後,桐材生産や畑作が行われたが,発電所の建設とともに水田化された。鶴来は手取川流域最大の町で,鎌倉期以来,昭和17年まで農村と山村を結ぶ市場町・在郷町の役割を果たした。鶴来~美川間の護岸堤防は霞堤と呼ばれ,上流に向かってラッパ状に広がる堤防を連ねる形式で,傾斜のある暴川に用いられる工法。増水時には下手より2つの堤防間に貯水されて洪水防止に役立つ。なお美川は以前,本吉(もとよし)湊と呼ばれ,河口に発達した港町である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7088418