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能登天領
【のとてんりょう】


旧国名:能登

(近世)江戸期の汎称地名。能登天領は土方(ひじかた)領より始まる。関ケ原合戦の際,去就の定かでなかった前田利長を,利家夫人の甥の土方雄久が東軍に与させた。家康は,その功を認め越中新川(にいがわ)郡布市村近辺の1万石を雄久に与えた。ところが,慶長11年富山へ移った利長は,この土方領が目障りなので,能登60か村の1万3,573石余と交換した(高橋文書)。雄久は,山崎村(現七尾市)に陣屋を建て治政したが,天和元年,雄隆が1,000石を弟雄賀に与え,雄賀はさらに150石を次子長十郎に分与し,土方領は三分された。貞享元年に雄隆は罪を得て,所領を幕府に没収され天領となった。元禄2年には,天領のうち49か村が鳥居忠英に与えられるが,同8年に収公,さらに同11年に46か村を水野勝永に与えるが,同13年に収公される。また,同16年には,残された土方領のうち長十郎領2か村150石も収公され,土方領は雄賀領7か村850石のみとなった。享保3年に天領黒島(くろしま)村と藩領鹿磯(かいそ)村で海境争論が起き,幕府評定所まで持ち込まれた。黒島村は天領であるから,幕府が味方すると思いたかをくくっていたが,鹿磯村は準備万端で臨んだため勝訴となったと伝えるが,当時極端な財政難であった幕府の改革の1つである代官所整理に乗せられて,能登天領は同7年に加賀藩へ預けられ御預所といわれた。この時,61か村で1万4,265石余であった。安永3年に天領千路(ちじ)村が出願した邑知(おうち)潟埋立一件は,またも天領・藩領の争論となり,これがもとで天明5年,藩領17か村が天領へ,天領8か村が藩領へと交換された。村数は違うが,御物成詰米高はともに497石余で,その差は1升7合ほどであった。文化7年に御預所も藩法に準じて治政されることが起因で,同10年御預所村民が金沢へ押しかけ愁訴に及ぶ事件が起きた。慶応2年には「御預高」の名目で藩領に打ち込む話が起き,翌3年に幕府が許可した。この時,1万5,000両の上納を命ぜられた。翌4年には,明治政府の御預所となり,土方領は引き渡されたが,明治3年に高山県に併合され,翌4年,七尾県成立とともに同県に編入,翌5年に七尾県が廃止され,石川県に属した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7089011