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白山麓十八か村
【はくさんろくじゅうはちかそん】


旧国名:加賀

(近世)江戸期の汎称地名。県域最高峰白山の山麓に散在した18か村。大日(だいにち)山に源を発する大日川沿いを西谷と通称し,新保(しんぼ)・須納谷(すのうだに)・丸山・杖(つえ)・小原(おはら)(小松市),牛首川沿いの東谷に風嵐(かざらし)・牛首(うしくび)・島(しま)・下田原(しもたわら)(白峰村)・鴇ケ谷(とがたに)・深瀬・釜谷(かまたに)・五味島(ごみしま)・二口(ふたくち)・女原(おなばら)(尾口村),そして尾添(おぞう)川沿いの尾添谷にある尾添・荒谷(あらたに)・瀬戸(せと)の18か村をいう。当地域の開村は,平安末期から鎌倉初期(白峰村史)といわれ,白山本宮の荘園として山内荘といわれた。戦国期には,山内組といわれ,尾添組・牛首組・西谷組と手取・大日川の合流地点の別宮(べつく)組の4組に分かれていたが,別宮組は18か村外である。当時,牛首谷を支配していた加藤藤兵衛は,永正の一揆に滅ぼされ,その子三郎助は福岡村(河内村)の城主結城宗俊に救いを求めた。大永元年,三郎助は結城の援を求め一揆軍を打ち砕くが,天正8年に柴田三左衛門の軍門に降る。関ケ原合戦後は,結城秀康の越前領となるが,尾添・荒谷は加賀藩領であった。白山杣取権について,尾添・荒谷の加賀白山寺と牛首・風嵐の越前平泉寺の争いは,天文12年からあり,明暦元年に再燃した。この時は,加賀藩対越前藩との問題にまで進展する勢いであったので,寛文8年加賀藩は尾添・荒谷の2か村の幕府への返却を願い出た。幕府は東谷11か村・西谷5か村をも含め天領としたので,白山麓十八か村の通称が生まれた。幕府は釜谷村に陣屋を置き,取次元として山岸十郎右衛門を任命し治政した。元禄3年の高は430石余で,文久3年の戸数1,524・人口7,370であり,戸数・人口に比して小高の所であった。主な産業は,「むつし」といわれる出作地での林業・製炭・蚕飼いであった。明治2年,福井藩に預けられ,同4年に本保県に所属するが,翌5年に石川県能美(のみ)郡へ編入された。同22年に西谷5か村が合併し新丸村となり,東谷は,明治9年牛首と風嵐の合併した白峰・桑島(明治15年改名)・下田原の3か村で白峰村を,他の9か村が尾口村となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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