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山内
【やまのうち】


旧国名:加賀

(中世)平安末期から見える地名。加賀国石川郡のうち。ただし戦国期には西南隅の一部(西谷)が能美(のみ)郡に含まれていた。「山内」の一部が能美郡に属したことを示す初見史料は,天正4年8月21日の加賀国旗本・組中連判状(北徴遺文)である。しかしながら平安期から鎌倉中期までは,南加賀西部の手取河谷全域を指す広域地名として用いられ,鎌倉後期から戦国期までは「山内荘」を称し,手取川河谷南半を荘域とする荘名として現れ,さらに戦国後期には,再び手取川河谷全域を意味する郡に準ずる広域地名として用いられる。地名としての「山内」の初見は,長寛元年に原型が成立したとされる「白山之記」であり,「山内ニ惣テ橋有十所」という記事と,「志津原明神 山内庄(広)瀬」という記事の2か所に見える(白山史料集)。後者は「大永神書」(白山史料集)にある「志津原明神 山内広瀬」と一致し,白山九所小神の1つ志津原明神の所在地広瀬(現在の石川郡鳥越(とりごえ)村大字広瀬)の意味であって荘名の初見例とはいえない。これらにいう「山内」とは,白山権現の山内(さんない),すなわち白山宮加賀馬場の聖域を意味し,下白山(しもしらやま)(現在の鶴来(つるぎ)町白山町付近)から南の,手取川河谷一帯を指す総称とされる。確かに,前掲の「白山之記」のはじめの記述は,白山山頂(禅頂)から出発して,檜新宮(ひのしんぐう)・加宝社を経由し,尾添(おぞう)川に架かる葛籠渡(かごのわたし)を渡って笥笠中宮(けがさちゆうぐう)を通り,佐羅宮(さらのみや)・別宮(べつぐう)を経て,白山宮加賀馬場本宮四社に至る,いわゆる白山禅定道(しらやまぜんじようどう)を下山する道を説明した部分に登場する。したがって「山内ニ惣テ橋有十所」は本宮四社以南の白山禅定道の道筋に所在する橋の数を説明したものにほかならず,ここにいう「山内」が,手取川河谷一帯を指すことは疑いない。続く「山内荘」という荘名の初見は,元亨元年4月10日・同年5月18日の六波羅探題御教書(南禅寺文書)で,「加賀国山内庄地頭吉谷五郎子息虎犬丸」の名が見え,佐羅・別宮神主職を知行する山内荘の地頭吉谷氏が神人を率いて,かねてから相論を反復していた手取川河谷西方の能美郡平野部に位置する南禅寺領得橋(とくはし)郷内の佐羅村に乱入している。ここにいう「山内荘」の成立事情も領家も判然としないが,手取川河谷が白山宮加賀馬場の本拠であることから,領家はもちろん白山宮であるとする説(白峰村史)と,「もともと白山山内であるからには,山内庄として立券庄号がなされたとも考えられない」とし,鎌倉末期に吉谷氏のような在地領主の成長によって山内荘を称し,「恐らく比叡山を本所とする庄園」であったとする説(鳥越村史)がある。しかし,貞和3年7月25日河内荘地頭藤原重宗寄進状によると,平安末期に「山内」に含まれていた広瀬村が,南北朝期に河内(かわち)荘に含まれている(祇陀寺文書)ことを考えると,文治元年3月11日に,手取川河谷北半を荘域とする河内荘が立荘(白山本宮神主職次第/白山史料集)され,加賀馬場の聖域「山内」に,院政政権と鎌倉幕府による立券荘号という規制が加えられたのを契機に,残る「山内」南半部も同様の規制を受けて,国家権力の公認手続きを経た荘園として確定されたものとみるべきであろう。その荘域は確定できないが,河内荘の存在と,地頭吉谷氏が本拠とした地点が,現在の鳥越村大字下吉谷付近であることから判断して,手取川河谷南半(上流域)一帯であったことは動かせない(白峰村史・鳥越村史)。ただし,「山内」の北半(下流域)が河内荘とされたのちも,手取川河谷全域を「山内」とする古い呼称は依然として存続し,旧呼称の「山内」と新呼称の「河内荘」「山内荘」は併用されていた。すなわち「三宮古記」(白山史料集)の鎌倉末期~南北朝期ごろと推定される記事に「山内的神人役,習之時的百枚宛」「流鏑馬之習的者百枚 仮令庶札数分也 沙⊏⊐河内庄内野地住人藤三郎・藤四郎 卅枚沙汰所へ未作之後庁用酒作」と見えるのが,その例であり,白山本宮に流鏑馬の習的100枚を貢納する山内的神人役は,当時,河内荘内野地(のうじ)(現在の馬越村大字野地付近)の住人2人が勤めていた。つまり,当時の白山本宮のいう「山内」は,吉谷氏を地頭とする「山内荘」と藤原(結城)氏を地頭とする「河内荘」の2つの荘園を指していたのである。河内荘地頭藤原(結城)氏は,室町幕府奉公衆として名を連ね,康正2年の内裏造営には結城左近将監に3貫790文が河内荘段銭として割当てられている(康正二年造内裏段銭并国役引付)。元亨2年に先例を無視して公事を賦課しようとして別宮衆徒と紛争を起こした河内荘地頭代も,結城氏の代官である可能性が強く,結城氏の行動は,終始,白山宮加賀馬場に対して敵対的であった。南北朝初期,河内荘内吉野に祖継大智によって祇陀寺が建立されると(日本洞上連灯録/大日本仏教全書),結城氏は,その外護者となっている(祇陀寺文書/尾口村史)。同じころ,加賀安国寺も手取川河谷に建立されたと推定され(郷土辞彙),「蔭涼軒日録」の寛正3年6月8日条に「賀州安国寺,依濃美河与白山河流合,寺将崩」とあることから,その位置を,現在の河内村の直海谷(のうみだに)川と手取川の合流点付近に求める説(加賀志徴・郷土辞彙・鳥越村史)と,現在の鳥越村大字河合(かわい)の「寺屋敷」に求める説(館残翁:加賀安国寺の弁証/北国新聞)がある。また,祇陀寺と同じ林下の流れをくむ寺院として,明峰素哲の門下珠巌道珍が開いたという「山内承天庵」も手取川河谷にあったことが知られる(館残翁:加賀大乗寺史,白峰村史)。ところで,「政所賦銘引付」文明7年8月16日条によると,「結城鶴市丸 知行分加州山内庄之内」とあり(親元日記),これは天文14年6月24日の室町幕府政所奉行人連署意見状案(密谷家文書/白山史料集)に,「結城知行分山内惣庄」とあるものと一致する。戦国期に入るころになって,河内荘地頭結城氏が,その支配範囲を山内荘まで拡大し,「山内」のほぼ全域を掌握したことをあらわすとみてよいが,この時期になると,地名の呼称としては,逆に河内荘の地名が消えて山内荘に吸収された形となっており(鳥越村史),これに伴って手取川河谷全域を範囲とする「山内」の地名が,再び一般化されるようになった。戦国の初期,応仁の乱勃発直後の加賀では,守護富樫氏の内訌が激化しており,東軍に属した富樫政親が「山内」を本拠としていた。「親元日記」文明5年7月3日条によれば,西軍に属した弟の富樫幸千代方によって「山内」を攻撃され,政親は越前の朝倉孝景に支援を求めている。この山内合戦を契機に北陸で最初の一向一揆の闘争である,いわゆる「文明一揆」が起こっている。本願寺門徒の支援をうけ,山川(やまご)氏・本折(もとおり)氏・槻橋(つきはし)氏らの国人衆を率いた「山内方」(柳本御文集/井上鋭夫:一向一揆の研究)の政親は,「白山宮荘厳講中記録」(白山史料集)文明6年7月26日条に「山内ヨリ十月十六日夜当山本院へ出張,仍長吏御房澄栄法印并衆徒等御味方ニ参」とあるように,白山宮加賀馬場本宮の衆徒も加えて,真宗高田派門徒が荷担していた幸千代派を撃破している。この合戦ののち越前吉崎にあった蓮如は超勝寺宛にしたためた「御文」の中で,本願寺門徒を「山内方」(政親方)に同心させた経緯を説明している。加賀の覇権を握った富樫政親は,その後,本願寺門徒の抵抗を恐れて,文明7年以後,弾圧に転じたが,長享2年5月からその本拠の高尾(たこう)城(富樫城)を加賀一向一揆の大軍に包囲され,6月にはついに滅亡した。「官地論」によれば,この長享一揆の際に高尾城包囲軍の中に「山八人衆・四山・々(山)之内ノ諸勢」が見え,「山内」の8人の長(おとな)衆と白山宮加賀馬場の本宮四社や「山内」の門徒衆が加わっていた。このとき石川郡の上久安(かみひさやす)に陣をとった一揆側の大将の1人の河合藤左衛門尉宣久も,「山内」出身の地侍とみなされている。一方,守護政親方の山川三河守は,「山内ノ軍兵ニ馳向フ処ニ,四山・々(山)ノ内ノ軍兵ドモ最中ニ取籠,百騎計ノ勢ニテ山内祇陀寺ヘ引越,其日夜半ニ越前勝山マテソ送リ届ケル」と記され,「山内」の門徒集団によって助命されたことが知られる。「白山宮荘厳講中記録」(白山史料集)によれば,「長享一揆」のあと,「山内」では,延徳3年10月11日に,地頭結城氏が,白山本宮の長吏職を手に入れようとして本宮に乱入し,合戦となり,結城方が敗北する事件が起こっているが,それは「惣其前後十一年ノ間,山内ト当山取合也」とあるように,11年余に及ぶ抗争であった。この結城氏の行動は,真宗本願寺派の門徒集団として勢力を伸ばしつつあった「山内」の住人に対する抑圧力の強化をはかったものと考えられている(鳥越村史)。「山内」に真宗本願寺派の教線が浸透したルートとしては,北から手取川をさかのぼって「山内」へ入るルートと,いまひとつ西の南加賀能美郡や南の越前国大野郡から谷(たに)峠・大日(だいにち)峠・鍋谷越(なべたにごえ)・中峠(なかのとうげ)・三谷越(みつたにごえ)などを越える山道からのルートの2つが想定されている(鳥越村誌)。真宗本願寺派の勢力扶植の早期の例として注目されるのは,文亀元年5月2日付で本願寺実如が「山内」西谷の丸山道場に下付した方便法身尊像の裏書に見える「円満寺村本光寺門徒 加州能美郡山内庄丸山 願主釈了承」という記述である(丸山村久保家蔵方便法身尊像裏書)。本光寺は,当時,能美郡軽海(かるみ)郷円満寺(えんまんじ)村にあった蓮慶開基と伝える寺院であり,丸山(まるやま)は,大日川上流,現在の小松市丸山町である。また,「本願寺系図」によれば,蓮如の子兼祐(蓮綱)の条に,「賀州波佐谷并山内鮎滝坊開山」とあり,能美郡波佐谷(はさだに)松岡寺の教線も現在の鳥越村相滝(あいだけ)付近に伸びていた。いずれも,西からの山越えのルートを語っている。また,「大谷一流系図」では,越前荒川興行寺玄真の系譜を引く康恵(蓮堯)の条に「興行寺 荒川住 後賀州山内若原住」と見え(続真宗大系),興行寺蓮堯が,永正一揆ののち,「山内」に亡命し,現在の鳥越村大字若原(わかばら)付近に坊舎を営んでいるのは,南からの教線の浸透の一例である。享禄4年「賀州三ケ寺」の大坊主(若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺)や清沢願得寺と,越前から亡命していた藤島超勝寺,和田本覚寺との対立が激化して,加賀の一向一揆の内部分裂である「享禄の錯乱」が起こると,「山内」が再び主戦場となった。「白山宮荘厳講中記録」(白山史料集)の享禄4年閏5月9日条には「然バ超勝寺・本覚寺一致シテ本願寺方ヲ成,山内ヘ取ノカルゝ也,此時国衆陣ハ長嶺ニテ山内衆ト取合也,其後一国同心ニテ,夏中山内諸口ヲ留也」とあって,超勝寺・本覚寺派は「山内」の門徒集団に支えられて,「山内」にこもり,長嶺(ながみね)に陣を取る三か寺派や加賀の国衆と対峙した。戦況は最初,超勝寺・本覚寺派に不利で,三か寺派の加賀の国衆によって「山内諸口」を封鎖されていたが,本願寺から法主の家臣の下間頼秀などが軍勢を率いて,「山内」籠居の超勝寺・本覚寺派を救援したために形勢が逆転し,「白山宮荘厳講中記録」(白山史料集)享禄4年閏5月9日条に「又蓮谷(波佐谷)ヲ為山内放火シ,坊主ヲ虜捕,後九人生厓(害)也」とあるように,超勝寺・本覚寺派に加勢した山内衆は,波佐谷松岡寺を攻撃して蓮綱・蓮慶父子などを「山内」に連行し,蓮綱は同年9月18日に「山内」で死去,越前の朝倉教景の干渉軍が撤兵したのちには,蓮慶など一族郎等9人も自害して,松岡寺一門は「山内」で没落している。ただし「天文日記」天文6年9月22日条に「先年能美郡錯乱之時,本光寺山内軽海衆相催たる由」とあることから考えて,同じ山内衆でも本光寺門徒の丸山了承道場を核とする丸山衆は三か寺派に属したと考えられる(井上鋭夫:一向一揆の研究)。ところで「山内」は,享禄の錯乱直後の天文年間には,加賀の一向一揆の「郡―組」組織のもとで「山内組」(山内惣荘)を構成していた。この「山内組」は能美郡四組の1つとも考えられているが(井上鋭夫:一向一揆の研究),「山内」の主要部は,中世には,むしろ石川郡に属しており,「山内組」のうち西部の西谷は別としても,その全体が能美郡四組に属していたとすることには疑問がある。「山内」は「天文日記」にしばしば「四郡并山内」と記されているように,加賀国の門徒組織である四郡(江沼郡・能美郡・石川郡・河北(かほく)郡)から独立し,郡に準ずる扱いを受けていた。尾添村と牛首(うしくび)村との白山禅頂の杣取権をめぐる相論を処理した天文14年6月24日の室町幕府奉行人連署意見状写(密谷家文書/白山史料集)に「結城知行分山内惣庄三組連判」とあるように,1郡に準ずる扱いをされていた「山内組」(山内惣荘)は,牛首組と他の3組という,4つの組によって構成されていた。この「山内四組」については,尾添川に沿う尾添・荒谷(あらたに)を中心とする尾添組,牛首川に沿う牛首組,大日川上流渓谷に散在する新保(しんぼ)・丸山などを中心とする組,手取・大日両川の合流地付近の福岡(ふくおか)を中心とする組とする説(北西弘:享禄の錯乱について/大谷学報34-2),大日川流域の別宮を中心とする西谷組(現在の鳥越村と小松市の新丸地区),直海(のうみ)谷から直海谷川と手取川の合流点付近に至る河内組(現在の石川郡河内村),それより上流の手取川右岸域から尾添川流域に至る吉野谷(よしのだに)組(現在の石川郡吉野谷村と尾口(おくち)村東部),東二口(ひがしふたくち)以南の手取川上流域にあたる牛首組(現在の石川郡尾口村西部と白峰(しらみね)村)の4組とする説(鳥越村史)がある。「山内組」を率いた旗本としては,大日川流域の二曲(ふとげ)を本拠とし,「天文日記」にしばしば登場する「山内(二曲)右京進」,吉岡(よしおか)を本拠とし,天文14年9月20日の結城宗俊契状写(密谷家文書/白山史料集)の宛所の1人となっている「吉岡七郎左衛門尉」,「白山麓拾八ケ村留帳」に永正年中の伝承として登場する牛首村の「加藤藤兵衛」(尾口村史)などの地侍が知られる。また,各組の長(おとな)衆としては,「天文日記」天文7年11月17日条・同22年2月2日条に見える「鮎滝(相滝)甚五郎」,天文11年8月23日条に見える釜清水(かましみず)の「山内道正」,天文21年6月23日条に本光寺代として見える「吉谷空道」,天文22年閏1月29日条・同22年2月4日条に見える「広瀬四郎右衛門」などのほか,「白山麓拾八ケ村留帳」に見える永正年間ごろの「嶋村(桑島(くわじま))尾屋孫左衛門」(尾口村史),貞享3年の「吉野村平三郎由緒」に見える天正年間ごろの「吉野村源次郎」(加能十村等由緒/尾口村史),「加越能里正由緒記」に見える天正年間ごろの「佐羅村九兵衛」(鳥越村史),現鳥越村大字柳原に伝承される「幟(のぼり)源左衛門」(同前),河内村金間(きんま)に伝承される「金間右衛門」(加賀志徴)なども組衆であったと考えられる。「山内」は,範囲が広く,いくつかの谷に分かれているため,複雑な地域的・階級的対立を内包していた。天文12年にはじまって近世中期に及んだ白山禅頂の杣取権をめぐる尾添谷と牛首谷の抗争は,その典型である。天文年間の相論では,地頭結城宗俊が牛首・風嵐(かざらし)両村を支援し,白山宮越前馬場平泉寺と結んで,白山宮加賀馬場と結ぶ尾添村と対立した。尾添村は,「天文日記」天文12年12月24日条に見えるように,本願寺を介して,白山宮加賀馬場長吏や本願寺と親しい山科言継に働きかけて朝廷や幕府に訴え(言継卿記),天文14年6月24日付の室町幕府奉行人連署意見状写(密谷家文書/尾口村史)が語るように勝訴している。このため,敗訴した地頭結城宗俊は,天文14年9月20日に吉岡七郎左衛門尉と尾添村にあてて契状を出し(同前),「山内」から姿を消した。一向一揆の最終段階になると,天正6年4月12日に,本願寺顕如は,山内惣荘中と鈴木出羽守にあてて,上杉謙信の急死を報じ,「山内之儀者とりわき毎度粉骨有難候,弥可然様たのミ入候外無他候」と記して,本願寺への忠節を督励し,また,2年後の天正8年4月1日にも,両者にあてて,織田信長との和平を報じ,柴田軍との停戦を命じている(林西寺文書/尾口村史)。ところが,顕如の長子教如を中心とする抗戦派が,信長との講和に反対して石山本願寺に籠城し,加賀四郡にも協力を要請したため,顕如は,同年8月3日に,加州四郡中・鈴木出羽守・山内惣荘中にあてて,これに応じないよう伝えているが(本願寺文書),「山内惣荘」の主力は教如派に荷担して抵抗を続けた(鳥越村史)。ここに登場する鈴木出羽守は,鳥越城(別宮城)に拠った「山内惣荘」の旗本であり,従来,天文年間に二曲に本拠を置いていた山内(二曲)右京進の後裔と考えられてきたが(鳥越村史),近年は,石山合戦が起こったのを機会に,顕如が加賀白山麓に派遣した本願寺の家臣の1人で,紀伊雑賀(さいが)党の鈴木氏の一族と想定する説が示されている(鳥越城跡発掘調査概報)。天正8年4月に金沢御堂が陥落したのちも,同年7月6日の波々伯部秀次書状(歴代古案別本11/尾口村史)によれば,「去月(6月)廿三日ニ於西河口合戦候而,御山(金沢城)之人数二百余うちとられ候,又去月廿八日ニ山内之口ニて合戦候而,三百七十余うちとられ候,何も山内衆の勝ニ罷成候」とあり,山内衆が,柴田勢を撃退している。「鳥越村史」では,この「西河口」を大日川と手取川の合流する河合付近,「山内之口」を広瀬・中島付近と見ているが,「尾口村史」は,「西河」を石川郡の犀川(さいがわ),「山内之口」を鶴来付近とし,山内衆が,一時,金沢付近へ出撃したものと見ている。ただし,「白山麓拾八ケ村留帳」によれば,天正7年8月に柴田三左衛門勝政が牛首谷へ侵入したのを契機に,「山内」南隅の牛首村の加藤藤兵衛は,織田方に服従して知行500石を与えられたとしており(尾口村史),「山内惣荘」のうち,牛首組は,すでに脱落していた。「信長公記」の天正8年霜月17日条によると,柴田勝家が安土(あづち)の信長のもとに届けた「賀州一揆歴々者」の首級のなかに鈴木出羽守とその一族5人のものも含まれており(同前),鈴木出羽守は,同年9月から12月にかけて,柴田軍に討たれ,鳥越城も陥落したらしい。しかし,「関屋政春古兵談」などによれば,翌天正9年3月頃,抵抗を続ける山内衆の主力は,鳥越城を,一時,奪回しているが,その後,まもなく柴田勢によって占領され(加賀志徴),「宇野主水日記」天正10年3月5日条に,「加州山内モ彼一揆等取出テ及一戦,則キリマケテ三月一日落居云々,生捕数百人ハタモノ(礫)ニアゲラルゝト云々」とあるように,同年3月1日には,最後の蜂起も完全に終息させられてしまった。吉野村平三郎由緒が伝える,「山内」の一向一揆の壊滅の様相は,「七ケ村之者共まけ,則吉野村より尾添村迄之者共三百人余御とらえ,はりつけに御かけ被成,其後七ケ村御たやし被成,三ケ年之間荒地罷成申候」という凄惨なものであった。天正11年6月,前田利家が石川・河北両郡を与えられて金沢を占領したおり,能美郡は江沼郡とともに越前北庄(きたのしよう)の丹羽長秀に与えられ,能美郡は,小松城に派遣された丹羽方の村上周防頼勝が支配したが,天正10年の尾添合戦以来越前に亡命していた吉野村源次郎は,前田利家に村上周防が亡所になっている吉野村など7か村を所領化しようとしていることを注進し,逃散していた百姓が利家によって集められ,村々の復興が許されたという(加能十村等由緒/尾口村史)。これは,「山内」のうち,手取川西岸を能美郡,東岸を石川郡として,近世の郡境が確定される事情の一端を物語るものであり,これに先行して牛首谷16か村(加藤藤兵衛の支配領域)は,すでに越前国大野郡と見なされていた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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