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九頭竜川
【くずりゅうがわ】


越美山地の岐阜県境油坂(大野郡和泉村)付近に源を発し,坂井郡三国町で日本海に注ぐ県内最大の河川。和泉村東市布から河口まで,流路延長116km。日野川・足羽(あすわ)川を含む全水系の流域面積は2,930km(^2)。川名の由来は一説に古名崩河(くずれかわ)の転かというが,詳細不明。和泉村朝日で石徹白(いとしろ)川を合わせ,魚留めの峡谷を経て,大野市西勝原(にしかどはら)で打波(うちなみ)川を入れ,大野盆地に出る。この間和泉村下山(しもやま)から大野市柿ケ島(かきがしま)まで両岸が迫る深い峡谷となり,九頭竜峡とよばれている。大野盆地の東端を扇状地性河川として網状に北西へ流れ,大野市土布子(つちふご)で真名(まな)川が合流する。勝山盆地で滝波(たきなみ)川を入れて西に向きを変え,吉田郡永平寺町鳴鹿(なるか)において福井平野に出る。勝山市平泉寺町大渡(おおわたり)から鳴鹿までは両岸に河成段丘がみられ,狭い氾濫原を網目状に流れる。中州が発達し,集落が立地する島地形がみられる。福井市内で日野川を合わせた後は北流し,三国町内で竹田川を合わせ,銚子口で日本海に入る。福井平野では鳴鹿を扇頂として緩やかな扇状地を発達させ,やがて自然堤防の見られる氾濫原から低湿な三角州に移行する。九頭竜川の名称がいつ頃から使われたかを知ることは史料が少ない故に難しい。「大乗院寺社雑事記」の文明6年閏5月15日の項に「越前国ハ甲斐打入 於崩河合戦 朝倉方打勝」とあり,また同12年8月3日の項に挿入した略図に「崩河」「鳴鹿川」と記されている。「朝倉始末記」には永正3年7月15日加賀・越中・能登の一向一揆の越前進入に際し,朝倉方の布陣として「九頭竜ノ河涯ヲ居ケリ」とあり,九頭竜の初見であろう。「越前地理指南」は吉田郡八重巻(やえまき)村の項に,「宇多天皇御宇寛平の比平泉寺の神殿頻に鳴動の事あり 衆徒夢らく像を投して流水に任すへしと 仍て彼尊像を新薦八重に纏ひて清冷の水に浮ふ 忽に一身九頭の那伽出て像を頂て大河に入速に下ル 其形勢頭は竜波の淵に臨て尾は廿四町の上に蟠ル 是より川を九頭竜川と号す」と,名称のいわれを記している。また,舟橋渡り村の項に「九頭竜川 舟橋」とある。各地でいろいろ呼び名があり,上流から魚留川・七板川・細砂川・鳴鹿川・黒竜川,また舟橋川・高屋川・三国川とよんでいる。「名蹟考」は黒竜(くずりゅう)川と記し,近世の地誌は黒竜川をとっている。明治以降は九頭竜川に統一された。近世の水運は三国を拠点にして,竹田川の金津(坂井郡金津町),本流の勝山,足羽川の福井,日野川の上鯖江(鯖江市)の間で行われ,金津―福井―上鯖江間の水運は,北陸道の陸送と競合するため抜荷として罰せられた。右岸からは鳴鹿(十郷)大堰から十郷用水などが坂井平野を灌漑して穀倉とし,左岸からは芝原用水が取り入れられて福井城下の上水などに利用された。本流における水力発電の開発は,県外資本によって行われ,第2次世界大戦前には,大正8年竣工の大同電力による現西勝原第2発電所(最大出力7,200kw)と大正12年竣工の白山水力による現西勝原第1発電所(同2万800kw),昭和16年着工した日本発送電による市荒川発電所(昭和24年完成)があるにすぎなかった。本格的な開発は昭和40年着工し,43年完成した九頭竜ダムなど6ダムの建設と長野発電所(同22万kw),湯上発電所(同5万4,000kw),西勝原第3発電所(同4万8,000kw)である。ダム建設により水没あるいは奥地に取り残されるため,17集落525世帯,二千数百人が住みなれた故郷をすてて移住を余儀なくされた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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