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長良川
【ながらがわ】


長柄川とも書く(美濃雑事記)。岐阜県南部のほぼ中央部を南流する川。全長158km,流域面積1,985km(^2),うち山地1,428km(^2),平地557km(^2)。県内分は全長144.6km(県勢要覧)で県内第一の長流。源流については大日ケ岳(1,709m,郡上(ぐじよう)郡高鷲(たかす)村)の東斜面に発し,夫婦滝を経て南東流する「カマス谷」とする説が一般的である(岐阜県大地理)が,見当山(1,352m,大野郡荘川村)の西斜面から西流する「本谷」とする説もある(長良川の生物)。2つの谷は高鷲村西洞(にしぼら)で合流し,鷲見川などを合わせ,同村南西部を西流して郡上郡白鳥(しろとり)町に入り,南東に転じて牛道川などを合わせ,幅のある谷底を持つ峡谷となって郡上郡八幡(はちまん)町に至り,大支流吉田川を合流する。ここから南流して美濃市まで比較的開けた峡谷をつくり,曲流しながら八幡町で亀尾島(きびしま)川,美並(みなみ)村で粥(かゆ)川を合わせ,美濃市北部で最大の支流板取川を合する。このあたりから水量も増し,川幅も広がる。関市の北西部で流れを西に変え,同市小瀬地内で2か所の小渓谷を通り,南西流して同市千疋(せんびき)で保戸島(ほどしま)をはさんで東・西2流に分流する。西側を流れるものは武儀(むぎ)川(水源は山県郡美山町,河川延長24.2km)を,東側のそれは津保川を合わせ,保戸島の南部で再び合流して岐阜市に入り,古津峡を経て金華山北壁の下を流れ,岐阜市街地となっている低い扇状地を作り,濃尾平野に出る。平野部では同市一日市場(ひといちば)で伊自良(いじら)川を合わせ,流路を南へ転じ,同市日置江(ひきえ)で荒田川,本巣郡穂積町で糸貫(いとぬき)川・五六川・犀(さい)川,羽島市で境川などの支流を集め,羽島市桑原町小藪から愛知県海部郡立田村福原まで木曽川と並行,海津郡海津町油島からは揖斐川と並行して南流し,三重県桑名(くわな)市の東部で揖斐川とともに伊勢湾に流入する。古くは藍見川(古事記)・因幡(稲葉)河(今昔物語集)とも称したが,江戸期には,上流を上之保(かみのほ)川・郡上川,中流を長良川・河(合)渡(ごうど)川・岐阜川,下流を墨(洲)俣(すのまた)川などと称していた(美濃明細記・新撰美濃志・美濃国絵図)。河道もしばしば変遷を繰り返したが,天文以前の長良川は上流部の郡上川が山県郡中屋村(現岐阜市)から西流,同郡太郎丸村(現岐阜市),同郡高富村・梅原村(現高富町)を経由して方県郡岩利村(現岐阜市)より南に転じ,ほぼ現在の伊自良川筋を流れ同郡木田村(現岐阜市)で古川(当時,津保川下流)を入れ南流し,安八(あんぱち)郡墨俣村(現墨俣町)付近で境川(古木曽川)に合したという。一方,現在長良川の支流津保川は各務(かかみ)郡芥見(あくたみ)村(現岐阜市)を経て方県郡長良村(現岐阜市)の南を流れ,長良川と称し(古川),厚見(あつみ)郡早田村(現岐阜市)を経て,上記のように木田村で郡上川(現伊自良川)に流入していた。ところが,天文3年,郡上川の洪水で山県郡千疋・側島(そばしま)・戸田村(現関市,前記山県郡中屋村付近)の間を破壊して南下し,芥見村で津保川と合し,一大河川となり,長良村の南を経て,早田村馬場で井水口を破って新しい川筋(井川と称し現,長良川)を作り,方県郡一日市場村(現岐阜市)で伊自良川に合流するようになった。さらに,慶長16年の洪水で長良村崇福寺前へ新川(古古川という)を分派し,方県郡鷺山(さぎやま)村・正木村(現岐阜市)の南を通って木田村で伊自良川に入るようになった。この結果,岐阜市長良付近の長良川筋は3流となり,北から,古古(ふるふる)川・古川・井川となった。平常,水は井川(現長良川)を流れ,増水時には古古川・古川にも流れた(稲葉郡志・岐阜県治水史)。他方,地質的調査から大洪水時には,中屋から太郎丸を経て高富方面に向かい,鳥羽川筋を南流したと考えられるとしても,長良川は古くから現流路の芥見・長良コースを流れていたと高富・梅原迂回説を疑問視する説もある(長良川の流路)。その後,昭和12年12月から古古川・古川の締切工事が行われ,昭和14年3月に完成,井川が現在の長良川筋となった。長良川は古来より洪水の多い川であり,すでに「美濃国因幡河出水流人語」として中世の「今昔物語集」にも記されており,川の歴史は水害の歴史でもあった。江戸期には100回以上,明治以後でも40回以上の水害を見た(岐阜県治水史)。近年でも,伊勢湾台風(昭和39年9月),9・12災害(昭和51年9月)には大きな被害をもたらした。特に,下流域では木曽・長良・揖斐のいわゆる木曽三川が合流し,地形が西へ傾斜しているため,河床の高い木曽・長良の水が揖斐川に向かって流れ落ち,加えて,木曽川左岸の尾張藩の御囲堤の築堤もあって,美濃側は常に洪水が多発した。その対応が村囲いの水除堤・輪中堤であり,80近い輪中が形成された。江戸中期以後,種々の治水対策もなされ,特に宝暦4~5年にかけて,薩摩藩の御手伝普請によって油島新田食違堤と大榑(おおぐれ)川の洗堰の2大工事が行われた。この結果,油島(海津郡海津町)で合流していた木曽川(長良川は約8km上流で合流)と揖斐川は2つに分けられ,また,長良川と揖斐川を結ぶ大榑川の水量が調節されるようになった。さらに,明治期に根本的な対策として三川分流工事が計画され,オランダ人技師ヨハネス・デレーケの指導の下に明治20年から28年にかけて,木曽川と長良川,同29年から長良川と揖斐川を背割堤で分流し,同33年に完成した(県史)。完成後は洪水も減り,氾濫の心配もなくなったため,輪中堤は入り乱れていた派川とともに次第に取り壊され耕地化された。大正末期から始まった土地改良事業はいっそう,そうした傾向を促し,輪中独特の景観もいつしか姿を消していった。しかし,昭和51年9月12日の台風17号による安八郡安八町での長良川堤防の決壊は,改めて輪中堤の効用についての論議を呼んだ。かつて,この川は物資の輸送路として利用され,舟運は河口の三重県桑名市まで通じ,明治になって鉄道など陸上交通が発達するまで,交通の動脈であった。美濃市の小倉山麓の岸辺に立つ住吉灯台がその名残をとどめている。長良川筋には高原・下田(郡上郡美並村),須原・立花・上有知(こうずち)(美濃市),小瀬(関市),世保(よやす)・芥見・長良・中河原・河渡・鏡島(かがしま)(岐阜市),墨俣(安八郡墨俣町)などの河港があった。なかでも,上有知・長良・中河原・鏡島の河港が繁盛した。現在,豊かな水は農業用水・工業用水・生活用水に利用されているが,河口から源流までダムが1か所もなく,自然河川としての姿をとどめている。発電所は小規模な長良川発電所(美濃市立花)が1か所あるだけで,支流を含めても5か所にすぎない。上流部の蛭ケ野(ひるがの)高原一帯は観光開発が進み,別荘地・スキー場・ゴルフ場・キャンプ場などができ,一大レクリエーション地域となっているが,長良川水源の汚染,ミズバショウの減少など自然破壊が問題になっている。しかし,その渓谷美・清流は今なお美しさをとどめ奥長良川県立自然公園・千本松原県立自然公園として憩いの場となっており,最近では,千本松原(海津郡海津町)を中心として国営の「木曽三川水郷公園」の構想もある。1,000年余の歴史を持つ小瀬(関市)や長良(岐阜市)の鵜飼も観光地としての重要性を果たしている。また,長良川の治水,利水計画として,支流の板取川にダムを,河口から5km地点に河口堰を建設する計画が立てられているが,いずれも地元の反対があって実現を見ていない。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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