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田子の浦
【たごのうら】


田子浦とも書く。静岡県東部,富士山南麓の駿河湾に面する海岸一帯を指す。「名所方角抄」は,富士川河口を挾んで西は三保の入江から東は浮島ケ原までの広範囲にわたる海岸の総称とするが,一般には庵原(いはら)郡蒲原(かんばら)町の海岸,吹上の浜を中心とした付近一帯の海岸をいう。「駿国雑志」に「田籠浦庵原郡田子村にあり」と見え,「風土記」にも「伊穂原郡田子里」とあり,古くは吹上の浜一帯を田子の浦と称していた。「万葉集」巻3,山部赤人の「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける」の有名な1首も,この吹上の浜で詠まれたとされている。田子の浦の海岸は,かつて白砂青松が連なり,富岳が駿河湾に影を落とす景勝地であったから,古来多くの文人により詩歌に詠まれた。田子の浦は田児の浦・多胡浦とも書き,「万葉集」巻3で田口益人は「昼見れど飽かぬ田児の浦大君の命かしこみ夜見つるかも」とうたい,平安期以降も勅撰和歌集に取り上げられ,「駿河なる田子の浦浪立たぬ日はあれども君を恋ひぬ日はなし」(古今集11,読人しらず),「田子の浦に霞の深く見ゆるかな藻汐の煙立ちや添ふらむ」(拾遺集16,大中臣能宣),「沖つ風夜寒になれや田子の浦の海人(あま)の藻塩火たきまさるらむ」(新古今集17 越前)等の名歌の数々を生んだ。「源氏物語」「蜻蛉日記」にも見え,「東関紀行」「春能深山路」「富士紀行」などの紀行文には必ず描写されている。江戸初期の文人石川丈山が「白扇倒シマニ懸ル東海ノ天」と詠じたように,田子の浦と白雪の富岳の取り合わせは,わが国の代表的景観として親しまれている。「続日本紀」天平勝宝2年3月10日条に「駿河国守従五位下楢原造東人等,於部内廬原郡多胡浦浜,獲黄金献之 練金一分,沙金一分,於是東人等賜勤臣姓」と見え,田子の浦が庵原郡にあり,金を産したことが知られる。蒲原町小金は実際に金を産出したという女夫岩があり,砂金は富士川・安倍川から流れ出て田子の浦に打ち上げられたものと考えられる。今日行政的には,富士市南部の沼川河口にある田子の浦港一帯を田子の浦と呼ぶようになったため,吹上の浜という本来の名を失うに至った。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7112553