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木曽川
【きそがわ】


長野県南西部から岐阜県南東部,愛知・岐阜両県境を通り,県北東部で伊勢湾に流入する。1級河川。流長227km・流域面積5,275km(^2)。東海地方第一の長流。源流は飛騨山脈(北アルプス)南部の鉢盛山(2,446m)の南斜面(長野県木曽郡木祖村)。南流して木曽谷をつくる。木曽山脈と飛騨山脈とに挾まれる木曽谷は島崎藤村の小説「夜明け前」の冒頭の一節「木曽路はすべて山の中にある」のように険しい峡谷となっている。御岳(おんたけ)山(3,063m)南麓を東流する王滝川を長野県木曽郡木曽福島町川合で合流する。同郡上松町に入ると,花崗岩の垂直・水平節理に沿って浸食された奇岩が名勝寝覚ノ床をつくっている。木曽谷を南西流する木曽川は,岐阜県恵那郡坂下町の北東端で岐阜県に入る。中津川市からは西流し,恵那郡福岡町までは恵那峡を,加茂郡八百津町から可児(かに)郡兼山町にかけて蘇水峡をつくっている。美濃加茂市に入ると川幅も広がり,同市川合で最大支流の飛騨川(147.5km)を合わせ,南西に流れる。可児郡可児町今渡から愛知県犬山市の犬山城付近までの約12kmは峡谷をなし,奇岩が連続している。ドイツのライン川の景勝地とよく似ているため,大正2年に地理学者志賀重昂によって日本ラインと命名された。加茂郡坂祝(さかほぎ)町からは愛知・岐阜両県の県境をなす。羽島郡笠松町から南流し,羽島市桑原町小藪から愛知県立田村福原までは長良川と並流する。愛知県八開村南端で愛知県に入る。当県桑名郡長島町松ノ木からは三重・愛知両県の県境となる。尾張大橋(国道1号)付近からは長島町と木曽岬(きそざき)町との間を流れて伊勢湾に入る。古くは鵜沼川(続日本紀)などと呼ばれ,また,岐蘇川(新撰美濃志)とも書いた。木曽川は土砂の供給量が多く,氾濫で流路を変えることもたびたびであった。濃尾平野南部には過去の木曽川の本分流の跡が網目状に分布している。古代の木曽川・長良川は現在の岐阜県安八郡墨俣(すのまた)町付近で合流し,一本の大河となって墨俣川と呼ばれていた(類聚三代格)。当時,鵜沼川(木曽川)・墨俣川は尾張・美濃の国界をなしていた。洪水による被害を少なくするために,川の上流部に人工堤防をつくったが,14世紀初めになると集落・耕地を完全に堤防で囲い込む輪中が現れた。最初の輪中は元応元年の高須輪中。慶長14年から翌年にかけて,初代尾張藩主徳川義直(家康の九男)により,木曽川左岸の犬山から弥富(やとみ)までの約50kmにわたる御囲堤(おかこいづつみ)が築造された。また,藩内の木曽川分流を本流と切り離したので藩内の洪水被害は少なくなったが,伊勢・美濃は,「美濃側の堤防は御囲堤より三尺低かるべし」という規制もあって被害は増大した。木曽三川下流に発達した輪中の多くはこのような状況の中で江戸中期以降に増えた。寛永~寛文年間には新田開発が進み,低湿地や遊水池の干拓が行われたので,土砂が従来よりも増して河床に堆積した。輪中内は河床に比べ相対的に堆積土砂が少なく,ひとたび輪中堤が破れるとその被害はさらに大きくなった。また,輪中内で排水されない悪水の処理も困難であった。輪中地域では,屋敷の北西端に高く土盛りをして水屋を建て緊急時に備え,水田は堀を掘った土で水田を高くして水枯れを防いだ。この地域には「十年一穫」という言葉があり,まともに収穫できるのは10年に1回ぐらいという。江戸期に長島輪中付近ではおよそ5年に1回の割りで洪水被害を受けた。何回か行われた水害対策工事で最大のものは,宝暦4年2月に始まった宝暦治水である。同3年12月25日幕府は,薩摩藩に御手伝普請による木曽三川の治水工事を命じた。藩主島津重年は工事奉行に家老平田靱負(ゆきえ),副奉行に大目付伊集院十蔵を任命し,北は濃州墨俣輪中から南は河口までの工事が始まった。最大の難工事は油島(勢州桑名郡,現岐阜県海津町)の締切食違い堤であった。80余名の犠牲者を出して工事は翌年完成したが,その後も洪水被害は少なくなく,根本的には明治政府による治水工事まで待たねばならなかった。オランダ人技師ヨハネス・デレーケを中心にして治水工事計画を立て,明治20年から3川分流工事に着手し,同33年に完成した(木曽川・長良川の分流は明治28年に,長良川・揖斐川の分流は明治33年にそれぞれ完成)。上流の木曽地方は古代には美濃国恵奈郡に属していた(三代実録)が,鎌倉初期からは信濃国に属し,江戸期には尾張藩領となった。ヒノキは貞和元年には伊勢神宮(外宮)の遷宮用材として用いられるようになり,中世末以後は林業地域として広く知られるようになった。本流に切り出された木材は木曽節の中で歌われている「仲乗りさん」によって,錦織(にしこうり)(現岐阜県加茂郡八百津町)まで流され,ここで筏に組まれ,白鳥(現名古屋市熱田区)まで運ばれた。明治44年に国鉄中央本線が全線開通し,大正8年には発電所が建設されたため,木材流送が不可能になり,第2次大戦後は自動車交通の発達により,現在ではトラック・鉄道で運ばれている。木曽川の本支流には多くのダムがあり,電力・上水道・農業用水・工業用水など多くに利用されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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