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雲出川
【くもずがわ】


三重・奈良両県境にある高見山地三峰(みうね)山付近に源を発し,北東流して一志(いちし)郡香良洲(からす)町と三雲村の境で伊勢湾に注ぐ。1級河川。流長55km・流域面積550km(^2)。川名の起こりは明らかではないが,下流部島抜(しまぬき)郷(現在の津市島貫)一帯の名称として雲津七郷があり,「勢陽五鈴遺響」に「須川雲津ノ名モ河洲の謂ニシテ」とあるように,分流していた下流部の川の名であったと思われる。水源の三峰山北東斜面よりまずほぼ北流し,美杉村奥津付近で伊勢地川を合わせる。その後八知(やち)谷の峡谷を通り,美杉村竹原で右から八手俣(やてまた)川を合わせる。以後次第に北東に向きを変え,久居市庄田付近で長野川を合わせる。これより山地を出て東流し,香良洲町と三雲村の境で海に注ぐ。なお,河口から3km上流部で左に雲出川古川が分流し,津市と香良洲町との境となっている。当川沿いの道は古来大和と南伊勢とを結ぶ交通路に利用された。伊勢平野への出口に近い丘陵部には古墳群が,また川沿いに県下で最古の形式の瓦を出土した寺址が分布し,大和方面からの文化流入の経路に当たっていたことがうかがわれる(県史)。また天平12年の聖武天皇の伊勢行幸にあたっては伊賀から阿保(あお)山(現青山峠)越えの道がとられ,当川沿いには河口頓宮(現白山町川口)が設けられたことが「続日本紀」に見える。「万葉集」巻6に大伴家持の「河口の野辺にいほりて夜のふれば妹がたもとし思ほゆるかも」の歌がある。南北朝期の頃にはほぼ当川を境に北朝・南朝の勢力が対立し,南朝の重臣北畠親房が南勢を抑えて後,当川流域を200年余にわたって支配した。支流八手俣川上流の霧山城(現美杉村上多気)がその本拠であった。近世の当川沿いの交通路としては,伊勢本街道が大和の榛原(はいばら)から奥宇陀の山間を抜け,当川上流の奥津を通り,峠越えして八手俣川上流の多気に入り,さらに峠越えをして櫛田川沿いの横野(現飯南町)に向かっており,また名張から阿保山越えで大井(現一志町)で当川に出,川合・八太(はた)と雲出川に沿って下る初瀬(はせ)街道(参宮表街道)もあった。下流部の利水のための用水も近世に相次いで開削されている。なかで雲出井用水は正保3年の大干害後,津藩2代藩主藤堂高次が西島八兵衛に命じて築かせたもので,慶安元年に完成。取水口は現在の久居市戸木(へき)で,津市高茶屋まで延長約13kmが掘削された。ほかに津藩代官山中為綱の経営により,高野井(取水口一志町高野)約2.7kmが承応2年に完成している。支流八手俣川が本流に合流する地点より上流800mのところに昭和47年県営君ケ野ダムが完成した。堤高73m・堤長323mの重力式コンクリートダムで,有効貯水量1,970万m(^3)。流域最上流部は室生赤目青山国定公園域,上・中流部は赤目一志峡県立自然公園域に指定され,登山・釣りなどに適した地域も多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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