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中勢
【ちゅうせい】


三重県の地域区分の1つ,中伊勢の略称。かつての伊勢国の中央部に当たる。県の行政・文化の中心的機能を果たしている地域。東は伊勢湾に臨み,西は布引山地(700~800m)で上野盆地との境をなし,これに続いて西南部は倶留尊(くろそ)(1,038m)・大洞(985m)・尼ケ岳(958m)などの室生山地の火山性の山地がそびえている。南部は紀伊山地の支脈である高見山地が東西に延びており,これらの山地から出る安濃川・雲出川・櫛田川・宮川などの下流部に伊勢平野が南北に長く弓なりの海岸線に沿って展開している。低い海岸低地に西から第三紀層や洪積層の丘陵台地が幾筋も延びている。気候は温和な東海型で,年平均気温は海岸部の津15.4℃・松阪15.5℃,内陸の奥津14.0℃・飯高14.0℃であり,年降水量は津1,722mm・松阪1,880mm・奥津2,077mm・飯高2,309mmで山麓部が海岸部に比しやや低温多雨である。行政上は津・松阪・久居の3市と安芸(あげ)・一志(いちし)・飯南・多気の4郡に属する河芸(かわげ)・芸濃・安濃(あのう)・香良洲(からす)・一志・白山・嬉野(うれしの)・飯南・飯高・多気・明和・大台の12町と美里・美杉・三雲・勢和・宮川の5村に分けられている。面積は1,839km(^2)で人口は46万7,354人(昭和55年国勢調査)で,県全域に対して面積は32%,人口は27%に当たり,人口密度254.1は県全体の292.2よりやや少ない。歴史的には古墳や条里制の遺構の多いことが当地域の開発の古さを物語っている。「和名抄」によると,当地域には奄芸(あんき)郡・安濃(あの)郡・壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡が置かれていた。伊勢の国府・国分寺等の重要機関は鈴鹿市にあったので,当地方は必ずしも伊勢国として重要な地域でなかったが,未婚の皇女が斎王として神宮に奉仕されることが行われ,現在の多気郡明和町の地に斎宮関係の施設が設けられた。この制度は後醍醐天皇の皇女祥子内親王まで続いた。その遺跡が現在発掘中である。平安末期に伊勢平氏と称せられる桓武平氏の一族が北中勢に蟠踞した。平正盛は伊賀の荘園を寄進して中央政界進出の機をつかみ,その子忠盛は昇殿を許された。忠盛は安濃津付近で生まれたという。平清盛が熊野参詣に当たって安濃津より出帆している(平家物語)。源平合戦に敗れた後もその残党が鎌倉方に抵抗した(吾妻鏡)。南北朝争乱に際しては北畠親房の子顕能の子孫は南朝に与し,一志郡美杉村多気(たげ)の地に拠った。南北朝合一後,小倉宮が伊勢国司北畠満雅を頼り,満雅は宮を奉じて義兵をあげ,岩田川の戦いに討死にした。その後北畠氏は室町幕府の一大名と化し,織田信長に滅ぼされるまで200余年続いた。「室町殿伊勢参宮記」によると,将軍足利義持は往路草津―水口―坂下―豊久野―安濃津―山田,復路は山田―安濃津―窪田―水口―帰洛という経路をとっており,この頃の参宮街道を示している。安濃津は神宮供祭物の積出港として栄え,将軍が寄宿するほどの集落であったが,明応の地震(御湯殿上日記)や戦乱により崩壊し,かつて4,000~5,000軒あった人家も荒廃した(宗長日記),永禄年間細野氏により津城が築かれたが,織田信長の伊勢平定により,信長の弟信包が代わり城下町を建設した(津市史)。次いで富田氏を経て慶長13年徳川家康の信頼の厚い藤堂高虎が伊勢・伊賀合わせて20余万石の大名として津に移り城下町の整備に努めた(勢陽五鈴遺響)。松坂は「勢陽五鈴遺響」によると「旧ハ四五百森ト称シ叢林ノ地ニシテ城塁モナキ処ナルニ元亀元年多気国司北畠家臣潮田長助始テ城郭ヲ築キ住ス……天正十二年豊臣氏ノ命ヲ奉シテ蒲生飛騨守氏郷江州日野ヨリ本郡松ケ島細頸城ニ移リ住シ五年ヲ経テ同十六年細頸城ヲ廃シ此地ニ遷リ再経営シ松坂ト称」したのである。細頸は古来参宮街道の結集した要衝であるが,土地が狭隘であるために松坂城移転を企てたのである。氏郷の松坂城下町建設は短日月に行われ,松ケ島の町民は強制的に移住させられた。さらに天正16年大湊や旧領近江日野よりも町民を来住させている(勢陽五鈴遺響)。江戸期に「江戸に多きもの伊勢屋・稲荷に犬の糞」といわれた伊勢商人は松坂木綿・伊勢木綿の販売で名をあげたもので,その江戸店の本拠地は松坂や津であった。中勢地方の平野で栽培生産された綿布は松坂木綿・伊勢木綿の名で売り出された。特に櫛田川下流域で早くから綿作が行われ,法田(ほうだ)の紺屋と結びついて色あせしない縞として喧伝された。三井・小津・長谷川・川喜多(津)等の大商人が輩出した。これらの綿工業は明治期以後の近代工業発展の素地となった。伊勢白粉といわれた軽粉は多気郡勢和村丹生の水銀を原料として射和(いざわ)で製造された。射和は古くから熊野街道の要地で,松坂の城下町ができるまで当地方の物資の集散地であった。軽粉製造起源は古代にさかのぼり,丹生の水銀が出なくなっても輸入原料による製造が続けられ,室町期には83釜あったという。江戸期には株仲間がつくられ製法の秘密を厳守した(県史)。明治期に入り新薬の輸入によって衰滅した。松坂は蒲生氏転封の後,古田氏を経て紀伊和歌山に徳川家康の第10子頼宣が封ぜられ,紀伊国のほかに伊勢で田丸・松坂・白子3領を領した。田丸・松坂・白子に代官所があり,松坂に城代を置いて伊勢三領の代官を支配した。津藩とともに明治初期まで続いた。明治4年安濃郡以北は安濃津県に,一志郡以南は度会(わたらい)県に入ったが,同9年度会県が廃され,安濃津県を改称した三重県に併せられて現在にいたる(県史)。中勢地方の北東部は長い間農業を中心とした生産活動が活発で,米・麦をはじめナタネ・ワタ・クワなどの栽培が盛んで,江戸期には伊勢木綿の産地として有名であった。最近は米作中心の農業に変わってきている。特産物的なものとしては明和町のダイコン,松阪市・多気町のミカン,津・松阪両市近郊の施設園芸による野菜,津・久居の花木・苗木などで,桑園も一志郡から松阪市の山麓部に若干残っている。津市周辺は伊勢平野のほぼ中央にあって,安濃・雲出川の流域で古くから水田農業が盛んで,良質な伊勢米・一志米の名が高い。10ha当たりの収量をみると津市415kg・河芸町432kg・安濃町414kg・白山町400kgで県平均の389kgより高い。当地域の水田化は条里制遺構が多くあることから古いものであるが,近世になっての開発によるものも少なくない。津藩は新田開発,池・井水の築造に努力した。中でも慶安年間につくられた雲出井用水は,以来350年にわたって津市・久居市にわたる田畑に広い給水区域をもっている。津市周辺の台地は平らな平坦面をもち,水はけがよく霜害が少ないことから苗木栽培が盛んで,その中心は久居台地・豊里台地である。豊里台地では苗木に代わってサツキを主とする花木類が多くなってきた。津市北部の栗真地区ではピーマンが,南隣の三雲村ではイチゴが,雲出川下流の沿岸部ではナシ栽培が盛んで,津市近郊の園芸農業は多彩である。三雲村に県中央卸売市場が設置された(敷地面積14万4,400m(^2))。櫛田川中・下流地域も農業地域として重要で,条里遺構が広く分布し,当地域の開発の古さを物語っている。しかし近世以降の開発が重要で,紀州藩では新田開発に努めており,文政年間飯南郡粥見(かゆみ)村に立楳(たちばい)用水がつくられて勢和村の干害を救った。灌漑用溜池も多く県最大の五桂(ごかつら)池がある。松阪市は市街地のほかはほとんど平地農村で,耕地面積も広く,米の収量も10a当たり410kgと高い。野菜もキュウリ・トマト・イチゴ等のほかに特産伊勢イモがある。これらに対して雲出川・櫛田川・宮川の上流部はスギ・ヒノキをはじめとする森林が分布し,県の重要な林業地域となっている。特に飯高町波瀬地区の人工林は吉野林業の影響を受けて盛んになってきたところである。白砂青松の伊勢湾沿岸では湾内漁業が盛んでカタクチイワシ・コオナゴの漁獲が多い。白塚(津市)・香良洲・松阪・大淀(おいず)(明和町)などの漁港で陸揚げされ加工されて出荷する。また雲出川以南の沿岸ではノリの養殖が盛んで松阪市・明和町が中心である。中勢地域は北勢地域に比べて第1次産業の地位が高いが,当地域にも工業化の波が押し寄せ,工業生産の伸長も著しく,県において北勢に次ぐ工業地域となっている。当地域の工業は原料立地的な食料品・繊維・木材加工等が主であったが,第2次大戦前すでに繊維関係の大工場が立地し,戦後さらに機械工業,特に造船業の誘致をみた(津市)。昭和55年の工業統計によると事業所数2,428・従業員数4万3,372・製造品出荷額等6,046億円で全県の22.3%・21.6%・13.5%である。出荷額100億円以上の市町村は津市(2,287億円)と松阪市(2,130億円)のみである。国鉄紀勢本線は亀山より津・松阪を経て紀伊山地に向かい,近鉄大阪線と名古屋線が旅客輸送の大動脈となっている。旧伊勢街道によった国道23号は海岸沿いに南北に通り,旧熊野街道によった国道42号は松阪市から,旧和歌山街道によった国道166号が松阪市から発進し,旧初瀬街道によった国道165号は津市から発進している。近年伊勢自動車道が名阪国道の関で分かれて南下し,久居インターチェンジに達しており,伊勢市に延びる予定である。中心都市は津と松阪で,津市(14万5,000人)は県政の中心,松阪市(11万3,000人)は商業活動が活発である。このほかに久居市(3万7,000人)がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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