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宮川?
【みやがわ】


奈良県境大台ケ原(おおだいがはら)山(吉野熊野国立公園)に源を発し,大内山川・藤川・濁(にごり)川・一之瀬川・横輪川など支流46河川をもち,東流して伊勢湾に注ぐ県下屈指の1級河川。流長90.7km。流域は,多気郡宮川村・大台町・度会(わたらい)郡大内山村・紀勢町・大宮町・度会町・玉城町・小俣(おばた)町・御薗(みその)村・伊勢市の10市町村にまたがる。伊勢市北西部を流れる当川は,古来種々の名があり,柿本人麻呂が「度会大河」と詠み(万葉集),「勢州古今名所集」には「宮川ト云フ,豊宮川トモ云フ,度会川ノ事也。豊受宮ノ禊川ナレバ豊宮川ト云フ」とある。宮川のことははやく「中右記」永久2年2月4日条に見える。宮川以東は神域となり,参詣者の禊の川でもあった。例年4月14日の御衣神事では宮川で祓を行うのが例となっており(大宮司大中臣長則記/大日料5-20),「室町殿伊勢参宮記」「伊勢紀行」「碧山日録」などには,宮川で身を清める参詣者の多いことが見える。「流れ出て御跡たれますみつかきは宮川よりやわたらひのしめ」(宮河歌合),「宮川の春立つ空の初風にうちいづる波の花や散るらむ」(後鳥羽院集)。なお,正中2年3月の度会行文処分状写には「宮河々船賃」と見え,これが処分の対象となっていることは,水上交通が盛んであったことを物語っている(櫟木文書)。上流は,わが国有数の多雨地帯で大杉谷の峡谷をなし,険しい山間には不動滝・七ツ釜滝・堂倉滝など20余の瀑布が分布する。この大杉谷に第2次大戦後,宮川総合開発事業の1つとして,発電・洪水調節・灌漑用水確保の目的で宮川ダム(堤高88.5m・堤長231m)が建設(昭和28年)された。現在同川には,宮川第一・宮川第二・三瀬谷(みせだに)・長ケの発電所がある。中流の大台町三瀬谷は,支流の大内山川が合流し,熊野街道の宮川渡渉点で,国鉄紀勢本線開通(昭和2年大内山駅)以前の宮川水運の終航点としてにぎわった三瀬の渡しの地。鵜飼船(宮川では運搬船のことをいい,また,ベカともいった)により材木・炭・薪・茶などが川を下り,代わりに塩・反物・瀬戸物などが上ってきた。現在は,国道42号が同町を通り,トラック輸送による木材の集散地となっている。三瀬谷ダム(昭和42年)によりできた奥伊勢湖は,県下初の公認ボート競技場で三重国体の会場にもなり,奥伊勢宮川峡県立公園となっている。河岸段丘の発達した中流域では,河岸の傾斜地に茶畑が分布し,県内最古の茶産地(大台茶・度会茶)となっている。春先と秋に発生する川霧が良質な茶を育てるといわれ,近年,晩霧防止用のファン(茶畑の扇風機)がみられる。伊勢市北西部を流れる下流域では,宮川堤のなかった昔,市内を幾筋もの分流(北宮川・法蔵主(ほとす)川・檜尻(ひのきじり)川・小柳川・清川・豊川)が流れ勢田川と合流していた。近世,寛永元年に山田奉行中川半左衛門が幕府に訴え初めて大堤防ができたが,その後も,たびたび堤防が決壊している(勢陽五鈴遺響)。江戸期,宮川治水で人柱となった松井孫右衛門の顕彰碑が宮川グラウンドの浅間(せんげん)堤にある。明治になるまで橋のなかった宮川堤には,上の渡し(柳の渡し)と下の渡し(桜の渡し)があり,当時のにぎわいは「伊勢参宮名所図会」にしのぶことができる。現在市内の当川には,度会橋・宮川橋・豊浜大橋・宮川大橋の4橋と国鉄参宮線および近畿日本鉄道の鉄橋が架設されている。河口にある大湊(おおみなと)町は,大小約15の造船所が並ぶ古くからの港町で,近世に「豊臣将軍朝鮮ノ役ニ軍船ヲ此地ニシテ九鬼長門守嘉隆ニ命シテ造リ役ス」(勢陽五鈴遺響)とあり,宮川上流からいかだを組んで運んだ木材で御朱印船を建造した歴史をもつ。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7129537