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比叡山
【ひえいざん】


滋賀県と京都府の境を南北に連なる山。標高848.3mの大比叡ケ岳(大嶽)を主峰として,四明ケ岳(しめいがたけ)・釈迦ケ岳(しやかがたけ)・水井岳などからなる山並みをつくる。「古事記」には大山咋神がこの日枝山にいたとあり,天智天皇7年に三輪山の大物主神が勧請されてからはこの大比叡神に対して小比叡神と称された。「懐風藻」にも神山として「稗叡」に藤原武智麻呂の禅院が営まれていたことが記されている。さらに山麓には横穴式古墳も多く,この地に多く蟠踞していた渡来系の人々とも深くかかわる霊峰としてその歴史は相当さかのぼると思われる。しかし延暦4年,受戒を終えた最澄がこの山に登って修行に励み,同7年比叡山寺を建立し(現在の東塔の根本中堂),またそれが彼の死後延暦寺の勅号を受けてから,この地は南都から独立した新宗教の場として新たな展開を遂げる。以後大講堂・戒壇院などが創設されてまず東塔が整備され,次いで円澄によって西塔釈迦堂,さらに円仁によって横川首楞厳院が設立され,18代座主良源の頃にはほぼ今日の比叡山三塔が成立した。それら三塔は16渓に分かれ,東塔には東谷・西谷・南谷・北谷・無動寺谷,西塔には東谷・南谷・北谷・南尾谷・北尾谷,横川には兜率(とそつ)谷・香芳谷・飯室谷・戒心谷・解脱(げだつ)谷・般若(はんにや)谷などがある。また延暦寺に至る道筋は,近江側の坂本から根本中堂へ出る本坂をはじめ,無動寺路・飯室路・大宮谷路,京都側からは大原・八瀬(やせ)や北白川からの道などが知られているが,とりわけ修学院(しゆがくいん)・赤山神社から水飲(みずのみ)を経る雲母坂(きららざか)越は,勅使坂とも称されるように,都の鬼門を守る叡山に向かう勅使が使う京からの本坂である。平安末,院政期政治史をいろどる僧兵の強訴も,この道を通って京に向かった。延暦寺は円仁・円珍・安然などによって台密を展開させることによって,より深く貴族社会に入り込むが,他方貴族の子弟が出家して山僧になる例も平安中期頃から目立つようになる。それに伴って寺領も急速に拡大し,堂塔も一層整備・増加した。院政期になると3,000人といわれる僧兵を擁する巨大な荘園領主として成長。宗教的権威とともに軍事的・経済的実力をもつ一大政治力で,皇族の行幸もみられるようになる。またこの頃から中世を通じて山門は内には三塔間や学生・堂衆間で,また対外的には寺門をはじめ浄土宗や興福寺・東寺など他寺,また武家勢力とも対立抗争を繰り返した。教義的には平安末期より天台本覚思想を醸成し,法然・親鸞・道元をはじめとする鎌倉新仏教の一素地をなすほか,文化の多方面に影響を及ぼした。同時に慧檀八流など口伝法門の形式などその内部も複雑に分化。このような中世の状況も元亀2年織田信長と浅井・朝倉軍の対立にからんで,織田信長のために全山焼打ちにあうことによって終末を迎える。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7134645