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嵐山
【あらしやま】


丹波高地の東端で,北西に烏ケ岳・山上ケ峰,南東に松尾山が続く標高380m前後の小高い山。北麓を北から東に保津川(桂川)が流れ,渡月橋が架かる。山頂には中世の嵐山城跡があり,わずかな土塁と曲輪跡が残る。北の山腹には松尾芭蕉の句碑「花の山二町上れば大悲閣」で知られる黄檗宗千光寺があり,角倉了以が保津川開削工事で尽力した人々を弔うために建立したものである。東の山腹には野猿が餌づけされ,桜・梅・ツツジの美しい岩田山野猿遊園地がある。東麓には行基の創建と伝え,嵯峨の虚空蔵さんといわれる真言宗御室派法輪寺があり,桜の季節には十三まいりといって13歳になった男女が盛装して厄除けと知恵を授かるために参拝する。対岸の渡月橋から約50mのところに,小督局が隠棲したという「平家物語」の插話にちなむ小督塚がある。当地は自然の風光に恵まれた景勝の地で,四季折々の風情があるが,特に春の桜,秋の紅葉が美しく,山をおおうころには保津川の水に映えてすばらしい。平安期から貴族の舟遊びも行われ,古くから紅葉の名所として歌にも多く詠まれている。藤原公任が「朝まだき嵐の山のさむければ紅葉のにしききぬ人ぞなき」(拾遺集)と詠んでいるのをはじめ,白河天皇「大井川ふるきながれを尋ねきて嵐のやまの紅葉をぞ見る」(後拾遺集),藤原輔尹「思ふことなくてぞみまし紅葉を嵐の山のふもとならずば」(新古今集),法印静賢「思ひ出る人もあらしの山の端にひとりぞいりし有明の月」(同前)などの歌があり,また「太平記」巻2の俊基朝臣関東下向の道行文に「紅葉ノ錦ヲ衣テ帰,嵐ノ山ノ秋ノ暮」とある。桜が歌に詠まれるのは中世以降で,後嵯峨上皇が離宮(亀山殿,現在の天竜寺の地)造営の際に吉野の桜を移して以後といわれ,「続古今集」には「亀山の仙洞に吉野山の桜をあまた移し植ゑ侍りしが花の咲けるをみて」として後嵯峨上皇が「春ごとに思いやられし三吉野の花は今日こそ宿に咲きけれ」と詠んでいる。後宇多天皇の歌に「あらし山これも吉野やうつすらん桜にかかる滝のしら糸」(新千載集)とあり,謡曲「西行桜」には桜の花をたたえて,「ここはまた嵐山,戸無瀬に落つる,滝つ波までも,花は大堰川,堰塞きに雪や,掛かるらん」とある。夢窓疎石の作といわれる天竜寺大方丈前の池泉回遊式の庭園は亀山と嵐山を借景とし,また夢窓疎石の定めた「天竜十境」の1つにも数えられている。江戸期になると舟遊びに庶民も多く集まるようになり,料理人を連れて舟中で名産の鮎を料理して賞味することが喜ばれたり,川畔には宿が置かれたりした。また角倉了以による保津川開削以来,筏流しが新しい風物詩となった。現在も行われている保津川下りは途中嵐山峡(保津峡)をぬけ,往時の筏流しを偲ばせる豪快なものである。昭和2年国史跡・国名勝に指定されている。現在は付近一帯は嵐山府立公園となっており,桜や紅葉の季節の催しや,7・8月の鵜飼,8月16日の万燈流しなど昔ながらの風情を偲ばせる祭礼や行事が行われ,古くからの旅館・料亭・茶店などの中に新しい風俗が加わり,にぎわいを見せている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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