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泉川
【いずみがわ】


京都府南部を流れる木津川の古称。「日本書紀」崇神天皇10年9月の条に「更避那羅山,而進到輪韓河,与埴安彦,挾河屯之,各相挑焉,故時人改号其河,曰挑河,今謂泉河訛也」とあり,輪韓(わから)川を挑(いどみ)川とし,それが転訛して泉河(川)になったとされる。笠置の山中から加茂の盆地へ出た部分には段丘平坦面を形成し,恭仁京が造営された。「みかのはら わきてながるる いづみがわ いつみきとてか こひしかるらん」の古歌は著名で,ほかにも多くの歌に詠まれている。木津の平野部から大きく北へ流路をかえて曲流する付近一帯の川原を清見川原といい,「山州名跡志」に「瓶原の西,岡崎村より鴨渡に至る川原」とある。「万葉集」に「三日の原布当の野辺を清みこそ大宮所定めけらしも」と詠まれ,瓶原・布当野との関係が深い。聖武天皇の行幸(続日本紀,神亀2年条・天平11年条)の時,この川原で流鏑馬が行われたという伝承がある。巨椋池へ流入するまでは川幅も広く,渡りが各所にあった。木津には泉橋が架けられており,「三代実録」貞観18年の記載では「泉河渡口,河水流急,橋梁易破,毎遭洪水,行路不通」とされている。また木津よりやや北方の山城町綺田(かばた)付近に比定される「樺井(かばい)渡」は「延喜式」に見える「樺井渡瀬(かばいのわたりせ)」とする説もあり「凡山城国泉河樺井渡瀬者官長率,東大寺等,毎年九月上旬造仮橋,来年三月下旬壊収,其用度以,除帳度田地子稲一百束充之」とある。陸上の往来が激しく仮橋を架設したものとみられるが,増水期にたえられるほどのものではなく,もっぱら船による渡しが一般的であった。泉川を横断する交通は頻繁で,そのために多くの労役が費やされた。また水量の豊富なことから水運にも利用された。さらに平城京造営の際には,材木のみならず,重量運搬物はほとんど大阪湾から淀川を溯り,淀津(与等津)から泉川を経て漕送されていたと考えられる。ほかに,現在の相楽(そうらく)郡南山城村の北大河原と南大河原の集落を結ぶ「大河原渡」があった。現在,高山ダムの完成に伴い大河原大橋が架橋された。明治以後は木津川の呼称が一般的となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7136484