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今出川
【いまでがわ】


現在の京都市北区・上京(かみぎよう)区をかつて流れていた川。中古京師内外地図は,東洞院大路(東洞院通)の北延長線上から南下し,北小路(今出川通)に至って2本に分流,1本はそのまま一条大路まで南流して東へ折れ,1本は北小路を東流して東京極大路(寺町通)で南折し,両者は東京極一条で再び合流してそのまま南へまっすぐ流下する川筋を描き,東洞院大路の川筋に「今出川」と記し,「此水雲カ畑ノ中津川ヨリ来ル」と注があり,欄外にも「東洞院ノ一条以北ヲ今出川街ト曰フ。今ハ東西街ノ名トナル」と説明を加えている。中昔京師地図も,より上流から描きはじめ,上御霊神社域北西隅付近から東洞院大路沿いに,相国寺地を南北に貫き,北小路で東折,東京極大路で南折する川筋を示して,東洞院大路の川筋に「今出川」,川が東折したあとの北小路以南東洞院大路に「今出川街」と記して,ほぼ同様の見解である。両図のもっとも大きな違いは,東洞院大路から東折する流れと,南流する川筋が2本描かれているか1本であるかということで,「今出川街」のあり方からみて,はじめ2本であったものが,のち南側,すなわち一条大路を東流する流路が廃され,北小路を東流するもののみになったことがうかがわれる。そののち,はじめ南北方向の街路であった今出川街が,東西方向の川筋の道に移ったと考えられる。「雍州府志」は,一条大路の北2本目の道を「今小路と曰ふ。今は今出川と号す」と,既に街路名が変化したものを記している。今出川通が東西方向の街路に移ったことの背景は,南北方向の流路が乱れて東洞院大路の線からそれたこともあるだろう。さらに,近世の京都町絵図に描き出された今出川は,上御霊神社の南西隅ではやくも東へ折れ,相国寺の北から東をめぐって門前を南下し,分かれて1本は今出川通を東流して途中で止まり,1本は今出川門から禁裏の中をめぐってやがて寺町通を南下する川筋になっている。それとともに,おそらく相国寺北東隅付近で分かれたのではないかと考えられる水路が寺町通を南下して寺町今出川で東折,河原町通に至って南折し,再び寺町通を南下する川に合流する。したがって,相国寺の部分で南北方向の今出川の川筋がなくなり,さらに今出川街と呼ばれた北小路以南の南北街路は公卿屋敷地区の拡大で旧状が変化する一方,かつて北小路と呼ばれた東西街路には,寺町通~河原町通間にも新たな川筋が加わって,今出川の名称がいっそう定着していったと考えられる。なお,寺町通を南流する今出川の下流部は,古来中川・京極川とも呼ばれてきた。今出川上流部の川筋は明治25年発行の2万分の1仮製地形図でも,旧上賀茂集落の南で鴨川から分かれ,御土居の内側を東南流し,東洞院北延長線上で南へ向きを変え,水田地帯を上御霊神社の北西隅までまっすぐに下ってくる河道として描かれている。今出川通沿いの河道も,大正のはじめ頃まで,同志社大学前から河原町通にかけて残っていたが,大正6年の京都市電開設に伴う道路の拡幅工事のため姿を消し,暗渠化された。川名の由来を「山州名跡志」は,北小路(今出川通)の説明文で,「此街従堀河東,称今出河,謂ハ昔有京極河,京極通五条橋ノ下ニ流ル,此流今此条東ハ鴨川ヲ去ルコト一町余ナルヲ以テ,此ヨリ鴨川ノ流ヲ京極河ニ通ス,仍テ其新ニ堀通ス時,今出河ト云シヲ,頓テ称号トスルナリ」と述べている。しかし,中古京師内外地図などに記されているように,古くは今出川の水は中津川から来たものであるという観念が存在しており,今出川の下流は中川と古来呼ばれてきた。中川は,「京羽二重」に「御霊の前を北より南へながれたる小川也,今出川とも京極川とも云」とあるように,上流部の今出川部分をも含む川名であった。中川は,中ツ川すなわち,中津川である。中川と称するのは,はるか北方の中津川の流末であることによると考えられる。また,古くは上賀茂集落の南で鴨川から分かれる水は,中津川の水であるという観念が存在した。したがっていったん鴨川に合流した中津川の水が再び分出するという意から今出川の名が成立したといえる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7136820