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男山
【おとこやま】


八幡(やわた)山ともいい,雄徳(おとこ)山・牡(おとこ)山(日本書紀)とも書く。八幡市西方,生駒山地最北端に位置する山。頂上の鳩ケ峰は標高142.5m。淀川をはさんで天王山と対峙し,桂川・宇治川・木津川の3河川が合流して隘路をなし,古くから京都への関門をなす戦略上の要害の地であった。桓武天皇は烽台を設け(日本書紀),南北朝期の争乱にはこの地が京都攻略の拠点となり幾多の合戦があった。「太平記」によれば,南北朝の正平7年2月19日,南朝の後村上天皇は京都から八幡に行幸し,八幡宮の祠官田中定清の邸を行宮所とした。また,「八幡宮建武回禄記」には「建武五年南軍男山に陣し北軍は足利尊氏をして攻めしむ。北軍社殿に放火し攻め入る」とあり,この戦いで八幡宮のすべての社殿・楼閣などが炎上した。現在,北東山麓に「後村上天皇行宮址」「正平之役園殿口古戦場址」,南東山麓に「正平之役城之内古戦場之址」,南麓に「正平塚(南朝忠臣塚)」としるした石碑が建てられている。さらに当山南麓の「洞(ほらが)峠」は,山城から河内へぬける高野街道筋の要地であった。山上の石清水八幡宮は,貞観元年行教律師が豊前の宇佐八幡宮から八幡神を勧請して以来,伊勢の皇大神宮に次ぐ朝廷の守神として信仰され,こののち,男山を八幡山とも称するようになった。源頼朝以降は源氏の氏神となり,一般庶民からも尊崇を集めている。社殿は貞観年中に創建以来,保延6年・建武5年・永正5年に炎上,その間しばしば造営および修理が行われたが,寛永8年に大造営となり,延享2年に大修理を行って,ここに現在の社殿が大成した(石清水八幡宮回禄記)。また,当山への坂道は猪鼻(いのはな)ともいい,八幡八景の1つ。「山州名跡志」には「在二鳥居内左岩上,伝日此路初八幡太神御影ノ路」とある。「綴喜郡誌」は,放生会御再興の時,坂道の険岨を難じて南半町のところに猪鼻坂を開いたという。現在,南麓は日本住宅公団男山団地が建設されるとともに住宅地となり,年々人口増加の傾向にある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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