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桂川
【かつらがわ】


大井川・大堰(おおい)川・戸無(難)瀬(となせ)川・保津川・清滝川など地域別の異称をもつほか,古くは葛野(かどの)川とも呼ばれた。京都府中部を流れる川。上流は丹波高原の大悲(だいひ)山付近に発し,南西流して北桑田郡京北(けいほく)町・船井郡日吉町・同園部町・同八木町・亀岡市域を大きく曲流して京都盆地に入り,市街地の南西方を南流して乙訓(おとくに)郡大山崎町の南方で淀川に合流する。源流点から亀岡盆地までは大堰川,同盆地から保津峡の間は通常,保津川と呼ばれ,以下の流れを桂川と呼ぶのが一般的である。延長107.8km・流域面積1,159km(^2)で,淀川水系の14%を占める大河。亀岡盆地から嵐山に出る保津峡は,愛宕・老ノ坂山地を先行的に貫流する峡谷で,水流が激しいうえに岩床の露頭が著しく舟運が不可能であった。葛野郡を流れる最大の大河である葛野川は,「山城国風土記」逸文によれば,賀茂建角身命が大倭の葛木山から山城河(木津川)に沿って下り,葛野河と賀茂川の合流点に至り云々と記載されているのをはじめ,史書に頻出する。平安初期には,天皇の行幸および伊勢斎内親王の禊に関する記事が多く,「続日本後紀」承和5年7月11日の条に「天皇幸葛野川,観魚」とあるように船遊びを中心とするものであったと考えられる。天皇の行幸も伊勢斎宮の禊も,ともに葛野河が平安京付近の川の中でもっとも清流をなしていたことと関連している。しかし,かなりの急流であったため,しばしば氾濫を繰り返したようで,平安遷都以前は,地元の豪族秦氏によって治水工事が行われていた。聖徳太子摂政下において秦河勝は松尾神社付近の桂川に井堰を設置し(秦氏本系帳),これが大堰の名の起源をなしたともいう。松室・上野(かんの)・徳大寺・上桂・桂・千代原・下津林・牛瀬・上久世・物集女・寺戸・下久世・川島などに分水する現在の洛西用水,あるいは寺戸用水と呼ばれる灌漑用水路の起源も同時に求められるという。これは,中世を通じて十一ケ郷用水(上六ケ郷・下五ケ郷)として機能し,「東寺百合文書」などは水論・河堤・水路修理の状況を,具体的な取水口や井堰設置場所などについては,応永26年の奥付を持つ桂川用水差図などに詳細に伝える。桂川は舟運の交通路としてだけではなく,古代から農業用水あるいは生活用水としても重要な取水源であった。十一ケ郷用水は,下流で東土川から菱川に至るものと,下久我に至るものとに分岐したのち,羽束師川に連なる。平安遷都後は,京城維持の上から氾濫防止が必須となり,「日本紀略」延暦19年10月4日条に,葛野川堤を修理のため,山城・大和・河内・摂津・近江・丹波などの諸国の民,1万人を徴発したことが記され,「日本後紀」大同3年6月21日,および7月21日条に親王・内親王・貴人・貴婦人に命じて葛野河を掘り防ぐための役夫を出させたことが記載されている。遷都直後から堤防修築工事が国の手によって進められたことがわかるが,秦河勝の井堰設置・用水路開削以来,葛野川の管理は秦氏一族の掌中にあり,天長元年から設置された防葛野河使(ぼうかどのがわし)という専門の役所も秦氏との強い関連があった。また,葛野河は平安京から西方へ向かう時に,どうしても渡らねばならない大河であり徒渉する人々の数も多く,延暦18年には往来する公私の徒の苦労を救うため,葛野川の楓(かつら)・佐比(さひ)の両渡しに船頭を置くように,という勅が出されている(日本後紀,延暦18年12月4日条)。楓渡は,現在の八条通が桂川を渡る桂大橋付近にあたる山陰道の渡し場で,佐比渡は「鳥羽の作り道」の南端部で,現在の南区上鳥羽塔ノ森地区南部から西岸の久我畷道の北端に通じる渡し場であったとする説がある。これを,桂川大渡りとする説もあり「入夜藤中納言経房,宰相中将泰通等参向桂河大渡,之後経,朱雀大路并六条,自大宮入御待賢門」(吾妻鏡)と見える。佐比の地名は「三代実録」貞観11年12月8日条の「佐比大路南極橋」にかかわる記述によっても知られる。なお,両渡付近の葛野河左岸一帯は,平安初期には一般庶民の葬送の地・放牧の地として利用されていて,耕作は禁じられていたと考えられている(三代実録・貞観13年閏8月28日太政官符/類聚三代格)。大堰川水運に関する史料上の初見は,「延喜式」木工寮に記載された大堰津に関するものである。木材を筏に組んで丹波から山城嵯峨まで運搬したことが知られる。暦応3年の天竜寺造営,応永13年の臨川寺造営,永正10年大嘗会用材,天正12年の大坂城修築,文禄3年伏見城造営などに大堰川筏の便を利用したと考えられる(南桑田郡誌)。豊臣秀吉は天正から文禄にかけて保津・篠村・宇津・関・田原の諸村に大堰川筏師の特権を与えて諸役を免除しており,この権利が幕末まで継承された。河川の修繕工事と浚渫工事は絶えず行われ,川筋諸事記によれば,慶長2年7月北桑田郡宇津郷の中高瀬・大棚・スベリ・堀戸・水戸・サルドヒなどの難所を切り開き,同10年には周山村宇野・森野・下中の大岩石を切り,石工270人・人足150人を要している。寛永5年大ねぢ・まがり中などの巨石を切り,寛文4年には堀戸裏の大石を切り,獅子ケ瀬を作り,宝永5年宇津山間のネリト・本すべりを,同7年には宇津山間まど岩,いけ岩まがり上の下,大淵の下を切り開き,正徳・享保・元文・寛保・延享・宝暦と大工事が各所に展開されてきた。川筋諸事記で上世木村から保津村までの井堰をみると,上世木・世木宮村・丁・高屋・千町・熊原・神田・八町・八木島・榾木・梶原・下梶原・寅天・馬路・河原尻・溝田・勝林島・宇津根・保津などがあげられる。大堰川舟運の便を開いたのは山城嵯峨の人,角倉了以であり,慶長年間の保津峡改修工事や,幕末期の大堰川から三条に至る西高瀬川水路の開削などにより,丹波地方の木材・薪炭・米などの物資輸送の重要な交通路となった。特に扇面洛中洛外図などにも描かれている桂川の筏流しは,梅津付近を中心とする木材業の発展と結びついている。梅津は古くからの河港であった。明治以降,鉄道交通やトラック輸送の発達でこの筏流しも衰退したが,梅津から西高瀬川沿いの嵯峨野一帯に製材業が多く残っているのも,舟運による丹波材の搬入という平安京造営時からの伝統と関係している。十一ケ郷用水のうち,羽束師川に至る水路は江戸期に太閤堤が築造されて以降,下流部の低湿地化により悪水が滞留するようになった。しかし古川為猛(ためたけ)による羽束師川の改修により,再び現在の洛西用水として機能するに至った。さらに,国鉄山陰本線が通じ,トラック自動車運送が盛んとなるにつれ,大堰川の水運は衰え,昭和初期をもって筏下しは終わりを告げた。しかし,明治末期から大正にかけて保津川遊船が盛んになり,筏師たちは船下りの船頭となる者が多くなり,山本浜に乗船場ができて王子~山本浜間の道を異人街道と呼ぶなど,船下りは有名となった。大堰川は,氾濫の元凶でもあり,亀岡盆地は洪水・災害の歴史を繰り返した。第2次大戦後,狭隘部の岩石の取り除きがなされ大堰川水系の各地に洪水防止ダムが設けられ,天若ダムなど,洪水防止調節に大きな役割を果たし,洪水・水害が減少した。現在は,工場や住宅地化の進展で工場排水や家庭用汚水の流入により水質の汚染が著しくなっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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