100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

鴨川
【かもがわ】


賀茂川・加茂川とも書く。京都市街地東部を南北に貫流する川。源流点は北桑田郡京北(けいほく)町との境にある桟敷ケ岳(895.9m)の南方。北区雲ケ畑中畑町に発し,源流の祖父谷川・雲ケ畑川・中津川などの小さな谷川を集めながら,北山の山中を下って上賀茂付近で京都盆地に入り,扇状地を形成しつつ南東流し,北東から流下してきた高野川を合わせ南方に流路を変え,四条通付近で白川を合わせ,東山区の国鉄奈良線東福寺駅付近から下流は南西方向に流れ,最下流部で堀川や西高瀬川を合わせ,伏見区下鳥羽下向島町で桂川に合流。流長約31km・延長23km・流域面積約207.7km(^2)。北山から京都盆地に流れ出た谷口一帯は古く賀茂氏の本拠であり,賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)など一族の祖神が祀られ,やがて愛宕(おたぎ)郡賀茂郷も成立して,賀茂という地名が定着し,その地域を貫流する当川が賀茂川の名称で呼ばれることとなった。古称を石川の瀬見小川という。「山城国風土記」逸文に賀茂社創建にまつわる説話が伝わる。史料上の初見は「山城国風土記」逸文に「賀茂川」とあるのを別にすれば,「日本紀略」弘仁5年6月19日条に「鴨川に於いて禊す。神祇官の奏に縁る也」と記される。「賀茂川」「鴨川」「加茂川」などが併用されてきたが,近代に入って高野川との合流点より上流部を賀茂川,下流部を鴨川と記す習慣もある。現在は全流程を河川法上,鴨川と総称しており,国土地理院発行の地形図でも,賀茂川の文字は使用していない。鴨川中流部の流路は,平安京造営時に人工改修が加えられた。鴨川の自然の流路は現在堀川の流路に近く,北東から南西へ流れ下る高野川とは京都市街の中心部で合流していたという説は一般的であるが,近年,鴨川の流路は現在の流路に比較的近いところを流れていたという説がある。いずれにしても,高野川との合流点以南,四条付近までの鴨川流路が南北に一直線であり,その北延長線上に天安2年8月に名神にあずかった河合神社が位置を占めること,東堀川(堀川)と西堀川の間の距離と東堀川と鴨川の間の距離が等しいことなどによって,鴨川は平安京造営当時に東・西の堀川とともに人工的な流路に付け替えられたと推測できる。その結果鴨川は平安京の東京極大路から東へ約400mの所を流れることとなり,平安京を守護する四神の1つ青竜になぞらえられることになったと思われる。史料にはたびたび禊や祓が行われる川としてあらわれ,清浄を求められた。西高瀬川との合流点以南から桂川に合流するまでを真阿淵(しんあがふち)と称した。名称は後亀山天皇の皇子真阿が水葬されたことによる。現在,鴨川の直線的な流路は,四条通付近から南になると乱れを生じて西へ寄り,五条通(平安京の六条坊門小路)付近から南では,平安京の東京極大路と一致する位置を南流している。確かに南方に向かうにつれて,東山西麓に連なる複合扇状地が障害となり,鴨川北部の計画河道の線を保って直流させることはできなかったであろう。しかしいくつかの平安京図を見る限り,京域の東辺南半部を流れていず,「九条家文書」所収の九条御領辺図によれば,「京極以東へ二十丈出テ法性寺大道ノ西ノ境目」とあり,現在の鴨川は「法性寺大路」を流れていたと考えられるから,四条大路以南九条大路あたりまでの鴨川は現流路より東にあったと考えられる。「坊目誌」も同様に,「往昔は一条より正南に流れたが,弘安以来洪水の為め四条以南に於て稍西に流域を変ぜしなり」と述べている。地形的には,九条大路まで直線的に貫流していたとは考え難いが,平安期の鴨川を東山区上・下柳町から本町通の線まで東へ移行して想定することは可能である。したがって鴨川は,平安京に至近の位置を流れる大河であり,洪水によって平安京に災害をもたらす危険を常にはらんでいた。そこで,水防にあたる機構としての防鴨河使(ぼうかし)が天長元年に設置された(天長8年12月9日官符/類聚三代格)。防鴨河使は,貞観3年3月13日の官符(類聚三代格)によって一旦停廃され,業務は山城国司の所管となったが,元慶元年には防鴨河使が再び任命されている(本朝世紀)ので,ごく短期間のうちに復置されたことがわかる。築堤や,堤防保全のために堤防周辺における水陸田の耕営を禁じたりする対策が防鴨河使によって講じられたが,洪水災害がしばしばあり,「平家物語」に白河院の言葉として記された,「賀茂河の水,双六の賽,山法師,是ぞわが心にかなはぬもの」との一節が,実感を伴って受け継がれてきた。のち天正19年に豊臣秀吉が築いた「京廻りの堤」すなわち御土居の鴨川沿いの部分は,新しい時期の水防堤でもあったといえる。鴨川が現在のような川になるのは,河川改修が進んだ昭和14年ごろである。水路としての鴨川を見ると,「本朝世紀」の天慶2年7月16日条に,「去る延暦十五年七月の例に依って,鴨河并東堀川を堰して諸司并王臣家の材木を運び引く事を停止」せしめたとあるように,古来材木運漕などが皆無ではなかったといえるが,一般的には平時水量が少なく,鳥羽付近と洛東との間の落差が6丈(18m)もあるといわれたほど河川勾配が急なこともあって,古代・中世には利用されなかった。しかし,慶長14年東山の方広寺大仏殿再興事業が行われるに及び,翌15年にかけて,鴨川はその資材を運漕する水路として,角倉了以によって初めて疎通させられた。その水路区間は同16年の5月ごろには三条橋のところまでさかのぼって,「駿府記」の同年11月29日条に「淀,鳥羽之船,直ちに三条橋下に至る」と記されたように,三条橋下が最上流の起終点になった。しかし,鴨川水路誕生の年から早くも高瀬川の開削が同じ角倉了以によってはじめられ,慶長19年秋まで,足かけ4年を費して完成し,鴨川の水路としての役割は短命に終わる。鴨川水路は,近世・近代を通じて京都と伏見を結び,淀川につながる安定した水路となった高瀬川運河形成の先駆的役割を果たしたといえる。鴨川の河道以上に注目すべき役割を果たしてきたものが「鴨河原」である。「続日本後紀」承和9年10月14日条に,「左右京職東西悲田院に勅して,並びに料物を給し,嶋田及び鴨河原等の髑髏を焼斂せしむるに,惣て五千五百余頭」とあることからうかがわれるように,平安期初頭には京民の葬地として利用された。しかし,中・近世には広場としての意味を持ち,さまざまの文化の温床として,重要な役割を果たしてきた。史料には,鴨川・高野川合流点付近の糺河原(河合川原)以下,荒神河原(近衛河原)・二条河原・三条河原・四条河原・五条河原・六条河原・七条河原・八条河原・竹田河原など,部分としてしばしばあらわれる。このうち四条・五条の河原は,「芝居は四条鴨川の東にあり。永禄年中に江戸の浪人名古屋三左衛門といふもの出雲のお国といふ風流女とかたらひ,歌舞妓と名づけて男女立合の狂言を仕組み,北野の森,祇園の南林,あるひは五条河原橋の南にて興行しけるに,秀吉公伏見城より上洛し玉ふ時,見物群集し妨に及ぶ故に四条の河原にうつす。其後中絶ありし所に,承応二年に村山又兵衛といふもの四条河原中島にて再興し,又縄手四条の北にうつし,遂に寛文年中に今の地にうつして常芝居となる」と「都名所図会」に記されたように,民衆芸能のメッカであり,それゆえに「四条の川原すずみとて」人々の群れ集う社交場でもあった。二条河原も,「此比都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨召人早馬虚騒動 生頸還俗自由出家 俄大名迷者 安堵恩賞虚軍 本領ハナルゝ訴訟人」にはじまり,「京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲゾモラスナリ」で終わる「落書」が張り出されて,その痛烈な政治批判が,集まる人々に喝采をもって迎えられた。また河原はしばしば公開の処刑場ともなった。河原の広場性は,糺河原が大原への,荒神河原が山中越の,三条河原が東海道の,五条河原が渋谷越や伏見への,それぞれ京からの出口にあたるターミナル性とも結びついていた。浮橋・仮橋を含めて,近世の鴨川に架かる橋としては,上賀茂社前の大宮橋(御薗橋),新町通北延長の上賀茂橋,鞍馬口の出雲路橋,鴨口の葵橋,大原口の出町橋・河合橋,荒神口の荒神橋,丸太町橋,二条橋,三条橋,四条橋,松原橋(牛若丸と弁慶の出合いの伝説をもつ旧五条橋,清水橋・勧進橋ともいう),五条橋,正面橋,七条橋,南区と伏見区を結ぶ勧進橋などが,時々に断絶するものもあったが,史料や絵図上に認められる。このほか「三代実録」元慶3年9月25日条に,「是夜,鴨河辛橋火あり。大半を焼き断つ」と記録された辛橋があるが,京南方であったこと以外,その的確な位置は未詳。今日では,鴨川の橋々はそれぞれに個性のある永久橋として姿を一変し,河原は,鴨川公園・グラウンド・サイクリング道路・散策道路・遊具広場として整備され,市民や観光客に親しまれている。なお,軟質の河水は京友禅の染色およびその水洗に適していたため,比較的近年まで,水あらいとさらしの色どり豊かな光景が河原にくり広げられて鴨川の特色となっていたが,現在その風景は過去のものとなった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7138784