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玉川
【たまがわ】


井堤河(山州名跡志)・水無川(府地誌)・玉河(扶桑京華志)・井手川ともいう。綴喜(つづき)郡井手町南部を貫流する川。同町井手の山中に発し,井手山中央部で美しい渓谷をなして西流,井手(玉川)扇状地を形成する。扇端部の水無・石垣集落付近から天井川をなして木津川に合流する。延長2.5km・流域面積7.8km(^2)。直線の川筋は条里制の条の界線と一致している。また,水無川は玉川の古名であり,川名は平素,水が乏しいことに由来するという(井手町史)。嘉暦元年8月27日の記録所勘文に「堺事石垣庄者……,北堺限井手谷,後水無河者自北谷流出河也」(北野神社文書)と見える。「勅撰名所和歌抄」「府地誌」によると「井手の玉川は我国六ツの玉川の一つなり」という。この川を溯って有王山へ行く道に「井手の岩橋」という自然石を並べた橋があったという。「綴喜郡誌」は「古来井手の玉川の名は天下に嘖々として雅客の杖を曳き,詩に歌に其の景勝を詠ずるもの頗る多い」と記している。また,井手の玉川は山吹の名所で,上流に生息する蛙とともに詠まれている(府地誌)。玉川の山吹は,奈良期に橘諸兄が植えてから,名所として世に知られるようになり,平安期以降の詩歌では約300首にも及んでいる(井手町史)。「山州名跡志」の「井堤」の項に「所詠和歌,茶(やまぶき),蛙」とあり,「井堤河」には「茶ハ即チ井堤河ノ畔ニ在シト見エタリ。今亡シ。当所ノ茶今尚他ニ異ナリ。花一重ニシテ形チ大ナリ。又八重ノ花元来アリ」と記している。井手(玉川)扇状地の開発は奈良期にさかのぼる。ここが早期に開発されたのは,玉川から灌漑用水を確保していたからである。寛治~天治年間の「東大寺文書」によると,玉川からの用水確保や用水権の取得をめぐる水論が,山麓の井手村(井堤村)と下流の水無村・石垣村との間でしばしば起こっている。下って江戸期の「井手村明細帳」などによると,玉川流域には4つの用水井堰があり,各井堰から取り入れた用水は,扇央部の水田に導水されている。現在もこの井堰によって玉川から用水を確保している。また,「拾遺都名所図会」には「井堤里玉川の流をひいて水車をめぐらし居候。碓を踏せて米を精白にし舂をまわして菜種を挽けり」とあり,江戸期には玉川の谷口付近から導水した動力による油絞・精米などの稼業が営まれていた。昭和28年の南山城大水害は,玉川堤がすべて決壊・流失し,流失家屋・死者が出る大被害をおよぼした。この水害で玉川流域は往時の山吹の咲きほこる風雅な姿を偲ぶことはできないが,井手保勝会によって玉川堤に山吹・桜が植えられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7142372