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中川
【なかがわ】


中河とも書く。平安京の東京極大路(寺町通)沿いに南流していた川。北小路(今出川通)を東流してきた今出川が東京極大路に達して南に折れる地点から下流の名称で,東京極大路を流れたため京極川とも呼ばれた。現在は今出川とともに廃川。「類聚三代格」が史料上の初見で,寛平8年4月13日付の「鴨河堤辺東西水陸田廿二町百九十五歩を耕作するを許すべき事」という太政官符の中で,「諸家并百姓墾田」にも触れ,「多く堤(鴨川の堤)の西に在りて皆中河の水を用う。今実検を加え須(すべから)く開墾するを聴すべし。何となれば件等の田,堤の西の中河の水を以て灌漑し,堤防の害を為すべからざればなり」とある。中古京師内外地図は東京極大路をまっすぐ南下し,途中二条大路で分流し東折して鴨川に入るもの,他はそのまま南下して六条大路で東へ折れて鴨川に注ぐ2つの河道を描き,中昔京師地図は,東京極大路を南下する河道を描くが,それは二条大路で東折して鴨川に入るのみで,二条以南へは流れない。「京町鑑」寺町通常盤木町の条に,「総じて此寺町通北より東側に溝川あり京極川といふ。是を中川といふよし八雲御抄に出たり。但二条より上をいふ也」と記され,二条以南は次第に廃川化が進んだのであろう。川名の由来について「河海抄」は東の鴨川,西の桂川の間にあるので中川と称するというが,両大河の間にある多数の小河川の中で,中川は鴨川により近接する位置にあったことから考えて納得しうる説とはいえない。「雍州府志」は,「京極殿と御堂との間にある故中川といふ」とするが,史料上の初見年次が法成寺建立のかなり前であるから,この説も矛盾が残る。むしろ,中川・今出川・鴨川などの本・支流の関係から考えたほうが妥当であろう。中川の上流は今出川である。「京羽二重」などは,中川を「御霊の前を北より南へながれたる小川也……。今出川とも京極川とも云」と,今出川までも含む川としている。さらに,中古京師内外地図も中昔京師地図も,今出川の水は雲ケ畑中津川から来たものと記している。中津川は鴨川の上流の支流であり,今出川は鴨川の分流である。したがって中津川が鴨川に合し,再び分かれて現れ出たゆえに今出川であるが,それは上流の中津川の流れであると解釈される。中津川は中ツ川であり,これが転化して中川となった。つまり中川の名称は,上流が中津川であることによると考えられるのではないか。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7142986