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双ケ岡
【ならびがおか】


京都市右京区御室仁和寺の南にある岡。北から南へ一ノ岡,二ノ岡,三ノ岡と3つの小丘が連続することからこの名があり,もっとも高い一ノ岡の頂上で,標高116.2m。「類聚国史」から天皇の行幸・遊猟記事を拾うと,天長7年閏12月2日,淳和天皇が「大納言清原真人夏野の双岡の宅に幸す」とあり,天長9年には「鷹犬を試さんがために,双岳及び陶野に猟す」とあり,承和14年には,10月19日に,「双丘の東にある」「東墳」が,「天皇遊猟の時,墳上に駐蹕して,四望する地となる」との理由で従五位下を授けられ,翌20日および翌嘉祥元年10月27日には双丘の下の大池のことが見え,さらに嘉祥2年2月21日にも,仁明天皇の「双岳」行幸のことが見える。平安京西北隅に近い,この特異な稜線をした岡は,その麓に右大臣清原夏野の山荘が営まれたこともあって,平安期初頭から,たいへん著名であったことがわかる。平安京域を中にして東の吉田山(神楽岡)と相対するような位置関係であることは注目されるが,地図上の厳密な事実としては,平安京正中線を中心にして双ケ岡と対称的な位置関係にあるのは鴨川で,鴨川西岸の線と双ケ岡二ノ岡の山頂を南北に貫く線との間を二分すると,それが平安京正中線になる。さて,「三代実録」天安2年10月17日条は,文徳天皇の四十九日の斉会に際して,「陵辺に三昧を修する沙弥廿口を,双丘寺に住ましむ」との記事を載せ,その双丘寺とは「元是れ右大臣清原真人夏野の山庄,今謂う所の天安寺也」との説明を加えている。この双丘寺,天安寺の末が,大治4~5年に待賢門院によって再興され,今日に法灯を伝える法金剛院である。法金剛院は双ケ岡三ノ岡の東隣の小丘の南に本堂以下の寺観を展開しているが,その小丘が,前述の承和14年に従五位下を授けられた「東墳」にほかならない。双丘の下の大池(双池)の古跡もこのあたりと考えられる。なお「徒然草」の著者吉田兼好も双ケ岡二ノ岡の西麓に住んだといわれるが,「都名所図会」などが「兼好法師の旧跡二の岡の西の麓にありしを近世岡の東長泉寺にうつすなり」と明記するように,現在は東麓の長泉寺に墓と歌碑があって,兼好ゆかりの場所は東漸した。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7143214