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贄野池
【にえののいけ】


新野の池ともいう(山城名勝志)。木津川東岸,大和街道(奈良街道)沿いに位置していた池。所在地については諸説がある。「山州名跡志」は現在の城陽市市辺にあった五嶋(ごとうの)池か,同市長池にあった長池に比定し,「山城名勝志」は綴喜(つづき)郡井手町の多賀と井手の間にあった地蔵池とする。このほか,「京羽津根」は「綴喜郡多賀村ノ西南」と記し,県神社祀官所の古図は多賀村の南,木津川寄りの池をさして「贄野池或は新野」としている。以上,古くから市辺説・長池説・多賀説・井手説がある。近年,この贄野池についての研究がすすみ,「贄野の池考」は「大和街道に沿い,木津川のごく近くで,いまの井手町大字多賀の南方の所にあたる」と述べ,「井手町史」も「旧多賀村と旧井手村の村境の木津川堤防の東側の地点の池」という。さらに同書は,贄野池は最近埋められたが,古くから魚釣りと水泳は禁止され,毎年8月23日には放生会をしていたという。これらの井手説に対して,「かげろふ日記新釈」は城陽市長池の地にあった長池とする。長池には悪蛇がいて人を害するとの伝説もあり,贄野の「贄」は「生贄」と考えられると述べている。「贄野の池の所在地について」と「蜻蛉日記の風土」は大乗院寺社雑事記の奈良から京都までの道順と,その地図に「新野池十八町池也」と記していることなどを根拠にして長池説を主張する。贄野池は,「にへののいけ」(蜻蛉日記・中務内侍日記),「贄野の池」(枕草子・更級日記),「ニヱ野ノ池」(愚管抄),「新野の池」(源平盛衰記),「にえ野池」(延慶本平家物語)などのように平安期以降の文学書に頻出する。「枕草子」には初瀬詣の途次の記事に見え,「京羽津根」は「にえのの池は新野の池と云い,俗に地蔵池と云う。今に御贄をみつぎする也」と記す。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7143284