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船岡山
【ふなおかやま】


京都市北区の大徳寺の南にある山。標高112mの孤立丘陵。名称の由来は「山州名跡志」に「形,船ニ類ス」,「都名所図会」に「舟の形に似たれば名とせり」と見え,「扶桑京華志」のように舟は舟でも「伏舟ニ似タリ。故ニ名ヅク」とするものもある。「東西二町南北一町許リ」の小丘(山州名跡志)にすぎないが,その位置が,平安京正中線の北延長上にあること,頂上から平安京北京極までの地図上の距離が1,410mで,大内裏南北距離と等しいことから,平安京の玄武になぞらえられた山で,平安京計画の基準点になった山であったと推定されている。「三代実録」貞観元年8月3日条に,「前年」のこととして「螟五穀を賊害する時,害食の州県内の清浄処に於いて,之を解き之を攘れ」とする董仲舒の祭法を「城北船岳」すなわち船岡山にて修したことが見え,「日本紀略」正暦5年6月27日条には,鎮西に発して諸国に流行し,京へも侵入して猖獗を極めた疫癘に対して,「巷説」に主導される形で,「北野船岡の上」に神輿2基を安置し,疫神に御霊会を修したことが見え,また,「伝道空海為ル所ノ五墓所ノ一也。山北ニ石崕有リ,崕上ニ無量寿仏像ヲ刻ム。海ガ画スル所也。其ノ前ニ護摩石有リ。中ニ大穴ヲ穿ツ。其ノ左右ニ小孔有リ。両傘ヲ容レテ護摩ヲ修スル址也」(扶桑京華志)などとも伝えられるように,修法の場として知られた。山頂に露出する岩石を「磐座(いわくら)」として,極めて古い時期の祭祀遺跡と見るのは,古代における修法の場としての船岡山のありように影響された推測であろう。京北に展開する紫野,北野,蓮台野などの洪積層から成る野づらの間に浮かぶ古生層の船岡山は,それらの野とともどもに葬送の地であり,遊行の地であり,それゆえに「景物,若菜,無常」などを主題として船岡山が詠みこまれた和歌が多い。例えば寛和元年2月13日に,円融上皇が紫野に幸して「子の日の興」を催すことがあったが(日本紀略),それにちなむ歌に「舟岡のわかな摘みつつ君がため 子日の松の千代を送らん」(元輔集)がある。永万元年7月28日に崩御した二条天皇は,「やがてその夜広隆寺艮蓮台野の奥,船岡山にをさめ奉る」と「平家物語」巻1に記された。「はかなさは舟岡山の夕間暮 しばしも絶ぬけぶりにもしれ」(夫木抄)は,無常に関する歌の一例である。船岡山はまた,応仁の乱に際しては戦略上の拠点の1つとなり,戦乱の場となった。応仁2年9月,船岡山上に城を構えた一色左京大夫,山名相模守の軍は,細川勝元軍によって攻め落とされており(応仁記),それから40年余りのちの永正8年8月にも,細川澄元らが山上に城を築き,丹波から長坂(京の七口の1つ)を経て攻め上ってきた足利義稙,細川高国らの軍勢と交戦し,やはり攻略されている(二川分流記)。戦略上の拠点ではあったが,現況からもうかがわれる通り,要塞堅固とはいえない城山であったようである。なお,現在山上にある建勲神社は,明治2年,織田信長を祀って出羽天童藩主織田家の東京邸内に創建したものを,明治13年,信長ゆかりの京都船岡山の東麓に遷し,さらに同43年に新社殿を建設して山上に移したものである。船岡山は現在国史跡に指定されている。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7144970