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由良川
【ゆらがわ】


府の北部を流れる川。京都府・滋賀県・福井県境の三国岳(766m)に源を発し,丹波・丹後地方を流れ,宮津市由良で日本海に注ぐ。延長146km,流域面積1,882km(^2)。古名を大芋(おくも)川・天田川ともいい,北桑田郡美山町付近では大野川,船井郡和知町付近では和知川,福知山市付近では音無瀬(おとなせ)川などの部分称がある。丹波山地中では蛇行しつつ南西流し,和知町で高屋川を合流する。美山・和知町,綾部市などの上流域では,丹波山地の隆起によって峡谷や河岸段丘を形成しており,綾部市付近の河岸段丘は5段に達する。綾部市から福知山市にかけては,幅約1.5km,長さ約25kmの福知山盆地を形成,盆地中で南側からの土師川を合流した後,北へ大きく流れを転じて牧川を合流,加佐郡大江町・舞鶴市・宮津市を流下する。由良川はほかにも大小多数の河川を合流しており,「丹後風土記」には「丹波筋よりの小川皆流れ入,八十八川の川尻といへり」と記す。由良川は河川規模のわりには平地に乏しく,福知山盆地を形成したあとも再び河口まで峡谷が断続的に続くため,しばしば洪水におそわれた。丹波高原の日本海側へ流れる全水系が集中する福知山盆地では,出口にあたる福知山市下天津(しもあまづ)付近で流路が著しく狭隘化するため,その被害は大きく,また頻繁であった。由良川の洪水の記録としては,久安3年の「丹波国留守所下文」(平遺2635)に「定遣松尾社庄并證菩提院領三条院勅旨田内流失実検使事」と見えるのがもっとも古く,福知山市市街地付近に比定される松尾社領雀部荘についても,建久9年の後鳥羽院庁下文(鎌遺1020)に「為流失弐拾五町代」と見える。近世以後の洪水記録はきわめて多く,享保年間以降10数回の大洪水が知られている。例えば享保20年6月の洪水では,現福知山市下天津~筈巻間で増水5丈余,倒壊家屋117軒といった様子(福知山市史)であり,明治29年の堤防決壊では流失家屋153戸・全壊家屋131戸・半壊家屋656戸,溺死者165名に達した。その後,堤防補強工事が施行されたことはもとより,洪水調節など総合開発事業の一環として,昭和36年に上流に大野ダムが建設された。舟運には同川の勾配が緩やかであるため,古くから利用されてきた。江戸期には,日本海の西廻り航路と結びついて活発に利用された。河口の由良湊は西廻り航路と内陸水運の接点として栄えたが,その一端はここを舞台として認定した森鷗外の「山椒大夫」などにもうかがえる。由良~福知山間には20石積の高瀬船が上下し,「丹波志」などによれば,上り荷は由良塩・西塩などの塩,酒,油粕,干肴,材木,薪,由良石などの丹後の特産物が多く,下り荷は米,ころび(桐実),こんにゃく玉,漆実,はぜ実,つるし柿,苧綿などの農産物が多かった。貝原益軒もその著「西北紀行」に,「福知山に着く,山上に城あり,城下,町ひろからず,朽木伊予守殿居城也,大川基東北に流る,川舟多し,是より舟にありて丹後の由良に下るといふ」と,舟運の様子を記している。福知山藩は,福知山より下流の船は福知山までとし,福知山の船は,そこから先の綾部市の大島堰まで上ることができることや,「船持定法」として船番所,舟継場に関すること,洪水・減水の際の通船は「年番」で決定することなど,さまざまの通船に関する規則を定めた(福知山市史)。また,宮津藩主の参勤交代,大江町の皇大神社・豊受大神社に参詣する「元伊勢参り」などにも利用された。近世には,大坂や京の商人も由良川に商業用の通船を計画し,京都町奉行や綾部藩などに願い出ているが,いずれも実現しなかった。これらの計画の中には,由良川支流の竹田川と加古川上流とを結びつけ,瀬戸内海と日本海を舟運で結ぼうとした案もあった。類似の計画は明治以後においても存在したが,やはり実現していない。舟運そのものは明治期にもなお盛んであり,明治32年には福知山~舞鶴・宮津間に由良川丸・阪鶴丸の蒸気船も就航した。しかし,明治32年の現国鉄舞鶴線の開通によって汽船の運航は廃止された。さらに,大正12年の由良川沿いの北丹鉄道の開通などにより,大正末期には由良川水運はほとんど消滅した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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