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上町台地
【うえまちだいち】


大阪市のほぼ中央を南北に貫く標高10~25mの洪積台地。南方の泉北丘陵から大阪低地に向かってN25°Eの方位で岬状に突出している。南北方向の長さは約12km,東西幅は約2~2.5km。この台地の形成時期は,最終氷期直前のリス・ヴュルム間氷期のころと推定されている。その要因は,この間の温暖気候のもとで,海進堆積物が浸食を受けたという説や,東と西に位置する大阪湾と河内低地の沈降,もしくは台地部そのものの隆起などが考えられている。台地北端に大坂城が位置するが,現大坂城本丸の南付近が最も高く,標高24.7mを示し,南に向かうにしたがって高度は漸減している。台地西側は東側に比して正断層による崖の発達が著しく,その比高は5~15mを示す。これに対して東側はゆるやかな傾斜を示し,沖積平野である河内低地に移行する。地質学的には,この台地は中位段丘とされており,東と西の沖積層下に下位段丘の埋没が予想される。谷の形成は,台地の西斜面に比して東斜面に著しく,その大部分は北西あるいは北東方向への開析谷である。特に北東部においては台地の奥深くまで入り込み,起伏の多い地形を形づくっている。これらの谷筋は,16世紀末の豊臣秀吉による大坂築城の際に,濠として利用された形跡もあり,今日では主として台地を横断する主要道路となっている。また南西斜面については,北北東から南南西に地質構造線が走ると推定されており,付近の浅い谷の谷水を集めて細江川の河流をつくり住之江浦に向かっている。この推定構造線を境として,上町台地は南面して傾き,南西側の我孫子(あびこ)台地といわれるブロックは,北向きの傾斜を示す。上町台地は大阪発祥の地ともいうべき土地である。ここに初めて人類が居を営んだのは,今日認められる限りにおいて,縄文中期である。この時代は,おりしも河内平野が内湾を形成していた時期に当たるといわれる。国鉄環状線森ノ宮駅の西方,大阪市立労働会館付近には,そのことを物語る森の宮遺跡がある。古代においては,畿内と瀬戸内海および大陸との交通の接点として,難波津と称される諸津が設けられ,その地理的特性を利用して早くから集落・古墳の立地を見た。特に台地北部には,中国・朝鮮の使節接待のための諸館や,天皇行幸のおりの行宮が造られていたことが「古事記」「日本書紀」からうかがえる。また,近年の発掘調査によって,白雉3年孝徳天皇の命により造営され,天武天皇の朱鳥元年に焼失した前期難波宮跡や,聖武天皇の命により神亀3年藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事に任じて造営を開始し,天平6年に完成した後期難波宮跡が,東区法円坂町一帯に発見され,京を含めたその全容が徐々に明らかにされつつある。このように,大阪の開発は上町台地より始まり,室町期の明応5年,本願寺8世の蓮如による石山本願寺と門前町の形成を経て,豊臣秀吉の大坂築城を見た。この城下町都市の形成は,下町にあたる船場・島之内・天満を中核とする近世大坂の繁栄をもたらした。明治以降,第2次大戦に至るまでの台地上には,城と寺町と官庁・軍施設が集中していた。このような状況は戦後も変わらず,台地北端は大阪府庁を中心とする官庁街・オフィス街が形成され,台地北部の上本町6丁目や中央部の天王寺には,交通ターミナル地域が形成されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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